Archive for the ‘うちのエッセイ集’ Category

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ひっぽに行ってから、ほぼ一年が経った。SOYAには、新しい仲間が増えたそうだ。私がお邪魔したすぐ前に、お客さんに来ていたご家族が、ひっぽに入ることになったのだ。MさんとSさんの家族にも、もう一人メンバーが増えた。娘さんが生まれたからだ。

藍染めのヒジャーブは、私の大のお気に入りの一枚になった。つけていると、「これはね、ひっぽの藍染め工房でな、一から作ってもらったやつやねんで!」と誰かに話したくなって仕方がなかった。見ていると、ひっぽの思い出が蘇ってくるし、他の人が見てくれた時に、このヒジャーブを通して少しでも、ひっぽのことに興味を持ってくれたらいいなと思った。イスラミックな服装のためのものではあるが、「和」の雰囲気を合わせもっているのも、気に入っているところだった。
あいかわらず、大学とアルバイトには着けて行く勇気は無いが、少しずつ、ヒジャーブ姿で居れる場所が増えてはきていた。
ヒジャーブをつけられるようになった理由には、ひところ感じていたショックがだんだん薄まってきたことがある。そして気持ちの整理がついてきて、「ヒジャーブをじろじろ見られた」ことと、「ムスリムとしての生き方を否定された」ことは違うということも分かってきた。たとえ、人によっては同じ意味だったとしても、これは私の生き方だから、人のことを気にすることはないのだと思うようになった。あの高校の頃は、親のことで大変だったし、心が疲れて傷つきやすくなっていたのだろう。そんな風に振り返ることができる余裕も、少しずつ出てきた。
そんな折、高校時代の親友、Hから、結婚式に招待された。結婚式と披露宴の間の受けつけも頼まれた。
初めてのことで、まず何を着て行くかで迷いに迷い、次にヒジャーブをするかどうかでジタバタジタバタした。Hにはムスリムであることを言っていたし、他の友だちの何人かも知っているはずだった。でも、実際に私がヒジャーブをしているところは、見せたことが無かったのだ。余裕が出てきたはずなのに、急に自信が無くなってきた。
「結婚式にヒジャーブして行ったら、『雰囲気が壊れるからやめてください』って言われたらどうしよう。」私はしょっちさんに相談した。「そんなことはないでしょ。」しょっちさんが軽く言った。私はため息をついて言った。
「ねえ、ムスリムもさあ、『もちつもたれつ』っての、ないんかなあ。」
「はあ?何それ?」
「角野栄子さんのな、『魔女の宅急便』に出てくるねん。魔女のキキがな、一人立ちしてな、新しい町に来んねんな、そんで最初は、町の人がな、キキが魔女やからって、何か悪いこと企んでへんかとか、子どもにさあ、こわいことするのよ、とか言ったりな、全然冷たい感じやねん。」
「ほう。」しょっちさんが言った。
「キキもな、どうして魔女は悪いことするって決めちゃうのかってめっちゃ落ちこむねやん。出発する前は、ひとになんて言われるかなんて、いつも気にして生きるのはいやって言ってたのにな。なんかそれってうちと似てるやん。ほんますごい落ちこんでな、部屋に閉じこもってな、『人間のふりをして暮らすこともできる』なんてことまで考えるねん。でもな、キキがな、宅急便の仕事始めてな、だんだん町の人たちとな、『もちつもたれつ』でうまくやっていけるようになんねん。キキのお母さんが言ってたことやねん、それ。『おたがいにできることは助け合う』って気持ちやねんて。だからさあ、日本のムスリムもさあ、この日本でさあ、なんかこう、もちつもたれつって感じになれたらええのにな。だってな、『お酒呑みません』とか言ったらさあ、『ここは日本だ。』って言われたりするやん。」
「『ムスリム』がどうのこうのっていうのは、違うと思うよ。」
「じゃあ何?」
「簡単だよ!キキはどうして、町の人たちとうまくやっていけるようになったんだよ?どうして宅急便の仕事をしようと思った?」
「それは…キキのほうきが壊れて、でも一生懸命飛んでるのを、町の人が見て…そうやな、キキの一番得意なのはほうきで飛ぶことやったから、それ使って何か人の役に立つことしようと思ってんな。」
「そうだろ?」
「ほんまや。ほんなんやったら、うちも一番得意なこと一生懸命やればいいってそれだけなんかな。いま障害児教育の勉強は一生懸命やってるけど、それでええんかな。」
「そういうこと。キキは、『魔女の私を認めてくれ!』なんて言わなかったろ。」
「まあ、ねえ。」私が言った。

最終的に、結婚式の服については、大学の友だちが相談に乗ってくれて、黒いシルクのロングドレスを貸してくれた。肩が出るので黄緑色の上着を着ることにした。ヒジャーブは、ギリギリまで悩んだ。
式は横浜であったので、前日は東京の姉の家に泊まった。姉は、トルコで買ったという、たくさんのヒジャーブを出してきてくれた。ドレスと上着に合うのはどれか、取っかえひっかえ試してみた。もっと新しい着け方はないか、どのブローチをつけようか、いっそ二枚重ねなんてどうだろうか。大騒ぎして結局、「とりあえず寝よう!」という時間になった。
翌日、一枚の、黄緑色のヒジャーブに決めた。ブローチはやめた。このヒジャーブを、きっちりいい形にセットすれば、きっとそれだけでおしゃれになるだろう。そう思った。式場で着替えられるとのことで、普段着を着て、藍染めのヒジャーブをつけて姉の家を出発した。
乗換えが多くて時間がかかり、最後はタクシーに乗った。式場に着いてみると、高校の友だちはまだ一人も来ていなかった。更衣室でドレスに着替え、黄緑色のヒジャーブをつけた。いつになく、バッチリ形が決まったように見えた。黒い手提げバッグに、少しヒールのついた黒いサンダルで、洋風の廊下を進んだら、自分の格好が周りとすごく合っていて、何となく、いい雰囲気だと思った。
「お客さま!」呼びとめられて振り向くと、「背中、背中!」と身振りで示された。慌ててファスナーを閉め直した。ホックをとめるのが大変で、それに気を取られてすっかり忘れてしまったのだった。早く教えてもらえて良かった、と思った。気を取り直して、まずは結婚式が行なわれるチャペルに向かった。まだ友だちは誰もいなかった。ひょっとして場所を間違えたのかと焦り出した頃、「新婦の入場」になった。
床にまで届く、すごくエレガントなベールをかぶった、かわいい花嫁さんの姿が見えた。やっぱり、Hだった。「よかったあ、合ってたあ。」とほっとしつつ、真っ白でかわいいウェディングドレスを眺めて、すてきだなあと思った。Hは、一歩ずつ進んで来て、私のほうを見てニコーッと笑った。いつもと同じ、Hだと思うと、何だかすごく安心した。
指輪交換も過ぎ、すてきなキスも拝見させてもらって、もうそろそろお開きというところで、高校の友達がドヤドヤと入ってきた。私に向かって律儀に、手で「ごめん」と言いながら、みんなあわただしく横の席に並んだ。
結婚式が終わり、ブーケキャッチのイベントが始まるまでの間、にぎやかに言い訳が飛び交った。「ちゃうねん、私なあ…」「一本だけ、遅かったんよねえ…」「アメオンナがこんなに揃うと、やっぱ雨降ったなあ。Aはさらに遅れてるし…」そこへ、待機していたHが割り込んだ。「ほんまにい!さっき入ってきた時、パッと見てほっちだけやったから、ああまた遅刻やわと思ってむっちゃおもろかってんから。」
披露宴の受けつけは、緊張したけれど、Hの友だちの社会人の人がいっしょで、いろいろ教えてもらったから、何とか務まった。途中で、遅刻組第二班のAちゃんがやってきた。「ほっちちゃん?だよね?」と言われて、「うん、そうだよ?」と何でそう驚かれたか不思議に思った。「そうやねん、うち、受けつけ係やらしてもらってんねん。」と、誇り高く言った後で、ヒジャーブをしていることを、自分がすっかり忘れていると気づいた。
私が、ウェディングドレスのHを見て、それでもHはHだなあと思ったように、みんなも、ヒジャーブはしていても私は私と見えたかなあ、とその時思った。「Aちゃん、みんなが、はよ来て晴れにしてって言ってたで。」と言うと、「まかしといて。」と唯一のハレオンナのAちゃんが応えた。
お預かりものを、Hのご両親にお渡しして、パーティーの席に着いた。私のメニューは、「特別メニュー」という付箋がついていた。先に席に着いていた友だちとしゃっべっているうちに、パーティーが始まった。
始めに、「このパーティーは、堅苦しい形ではなく、参加者のみなさんに楽しんでもらえるものにしたい」という、新郎新婦のお願いが発表された。その通りに、二人と気軽に会話できる場面もたくさん設定され、本当に和やかで楽しいパーティーになった。
Hは、私のテーブルに来るたびに、「大丈夫?食べられる?」と聞いた。Hは以前に電話で、私が何を食べられて何を食べられないのか、詳しく聞いてくれていた。「全部食べさせてもらってるよ、うちこんなにおいしいお料理は初めてやで。ありがとうなあ、ほんま。」と私も心から返した。
Aちゃんの力が効いたのか、テラスでデザートバイキングをいただく頃には、すっかり晴れた。新郎さんも「ほんと晴れたね、ありがとうございます。」と笑っていた。彼は年上の社会人、Hは看護師さんで、今は保健師学校に通っている。しかも、神奈川出身と大阪出身だった。しょっちさんと私の状況に似ていた。前に一度、Hから、彼との生活がうまくいくかどうか、相談を受けたことがあったから、幸せそうな二人を見ていると、こっちも満たされた気分になった。
「うち、ほっちがどんだけすごいか、分かったわ。」少し前に、Hが彼といっしょに住み始めた時、電話で言われたことがある。「学校行って、家事もしてなあ。自分が同じになってみて、はじめて分かったわ。しかもほっち、アルバイトもしてるやろ?」「うん、そうやけど、大丈夫やで。」ちょっと嬉しくなって言ったものだ。そんなことを思い出すと、じいんと来た。七月生まれのHは、誕生花でもあるひまわりに囲まれて、いつもと同じように笑っていた。
Hが、思いっきり大阪弁で、ご両親への感謝の手紙を読んだ。それから、花婿さんが最後の挨拶をした。楽しい雰囲気のまま、パーティーはお開きになった。
私たちは、少し後で、Hと話す時間をもらえることになった。「ちょう待ってて、着替えてくるわ。」私が言った。みんなはそれぞれ泊まっていたところから直接来ていたので、そのまま帰るということだった。更衣室で普段着に着替えて、藍染めのヒジャーブをつけた。
みんなのところに戻ると、「それも良いねえ。」と言われた。「色がいいね。」美術大に行っているTさんが言った。「そうでしょ?これなあ、ほんまの藍染めやねん。藍染め工房の人に染めてもらってん。だから一個しかないもんやねんで。」私は嬉しくて、勢いこんで言った。「ほんまあ、すごいなあ。」「っていうか、全体のコーディネートも合ってんなあ。」私は、パリのファッションショーで賞を取るより、もっと嬉しい気持ちになった。
「みんな大阪やのに、横浜で大集合っていうのもおもろいもんやね。」一時間ほど後に、みんなでお茶を飲んだ後、私が言った。「まあね、こういうのもいいね。」「ほっちちゃんは、もう帰るん?」「うん、レポート貯まってるしな。」「うちもうちも。」Aちゃんが言った。「お互いがんばろな。」「また大阪でお会いしましょう。」「花火行こなあ。」と言い合って、私は駅へ向かった。

「そんなこと言われても、今が十分変わってるから、これ以上何とも思わんよ。」
高校の時、Hに自分がムスリムであることを打ち明けたら、こんな言葉が返ってきた。Hや他の友だちのように、私のことをもともとよく知っているから、ムスリムであることもおまけみたいに自然に受けとめてくれる人もいる。どうして、なんでと質問攻めにする人もいる。質問攻めにはするけれど、話をきちんと聞いてくれ、「なるほどね。」といってくれる人もいる。食べ物のことばかり気になる人もいる。ヒジャーブのことを、「きれいですね。」「おしゃれだね。」と言ってくれる人もいれば、平気で指を差し、こそこそ話したりする人もいる。まあ、いろいろな人がいるけれど、いちいちビクビクしないで、分かってくれる人が二人でも一人でもいたら良いや、というぐらいに思っておけば良い。そう思うようになった。

私は今、本気で教師を目指し、一生懸命勉強したり、アルバイトをしたりしている。しょっちさんと暮らしているし、いろいろな友だちがいる。そして私はムスリムだ。そういうことを 全部合わせて、これが私の生き方だと思っている。大変なこともあるが、毎日楽しい。だからこれで良いと、自分で思っている。教師になれたとしても、あいかわらずヒジャーブをする望みが、完全には果されないかもしれない。でも、それが全てではないし、自分の生き方はこれだと
自分で決めてすることだから、前のように何か言われても、ひどくショックを受けることは、きっともう無いだろう。いつの日か、分かってもらえる日が来れば、それで良いと、今は思っている。いつの日か。

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翌日の午前中は、MさんとSさん、お二人とも作業で忙しくしていた。私は息子さんといっしょに過ごした。息子さんを抱っこして、家の裏手の道を歩いている時、良い香りがしてきた。「行ってみようか?」香りのする方へ歩いて行くと、そこに梅の木があった。熟した実が、地面にも落ちていた。「おっもしろいねえ。」と息子さんに言った。家の横に、宅急便のトラックが入ってきた。「今日は何もありません。」Mさんが言っていた。「ハイテク農業だ。」とSさんが笑って言った。

午後から、Mさんたちのお友だちに会いに行って、ついでに温泉に行こう、ということになった。「久しぶりの休みだ、まあいいかな。」とSさんが、農作業の残りを検討してみた後で言った。
お一人目は、「藍染め工房&アートギャラリー 野風(やふう)」をやっていらっしゃるYさんだった。Yさんは、髪もひげももじゃもじゃで、手と爪はまっ紫だった。
工房に入らせてもらうと、藍の香りが充満していた。上からは、藍染めの作品がたくさん吊るされていた。床には、でかい丸い水槽みたいなものがいくつかあって、中に藍染め液が淵近くまで入っていた。絞られた布がいくつか、途中まで浸されていた。「これって、家庭でもできるものなんですか?」と私が聞くと、「藍の世話って、牛一頭飼うぐらいのことだからねえ。」とYさんは答えた。
「ほら、これ、藍の花って言うんだよ。」見ると、藍染め液の上に、藤色のもこもこしたものが浮いていた。じゃがいもをゆでた時に出てくる灰汁みたいだった。実際藍の花は藍の灰汁であるように思えた。
「すぐだから、よく見てて。」と言って、Yさんが薄い布を液の中に浸し、すぐ出した。見ると、最初かすかに緑色だったのが、ふわあっと薄い青色に変わった。「表面は酸化してるけどね、この中では液は、色がついてないんだよ。」とYさんが言った。「インディゴホワイトってやつですね。」私が言った。「んっ?よく知っているじゃない、詳しいの?」「いえいえ、学校の化学の講義で教えてもらっただけです。」と言いながら私は、その講義のことを思い出した。色素「インディゴ」の化学式が解明され、人工でも藍色が大量生産できるようになったけど、やはり本物とは違ってくるらしい。化学式と、目の前の藍の花とは、確かにすごく大きな隔たりがある気がした。
座らせてもらったところは、最初巨大なテーブルと思ったが、よく見ると碁盤のように縦横の線が入っている作業台だった。麦茶を振舞ってくださりながら、Yさんはするどく「イスラム教?」と聞いてきた。すごく興味を持たれたらしく、質問攻めにあった。私も負けじと藍染めのことを質問した。
ヒジャーブの話になった時、Sさんが、「良かったら、かなり遅いけど結婚祝に、プレゼントしようか?」と言った。「手作りだから、やっぱりすごく高価になっちゃうんだけど、記念にねえ。」私は「えっ、よろしいんですか?」と言いながらすごく嬉しかった。
「それってどのくらいの大きさなの?」Yさんが言った。私は上につけていたトルコの青いヒジャーブを外して、台の上に広げてみた。下に薄いのをもう一つ着けていたのだ。
「ああ、ガーゼじゃん。」ピッと触ってすぐ、Yさんが言った。「ええっ、ガーゼなんですか。」私が言った。「そうだよ、やわらかくて、夏にはいいね。」Yさんが言った。いつも使っていたけど、何にも知らなかったんだなあと思った。「全く同じ感じの布じゃなくてもいい?」Yさんが聞いた。「ええ、もちろんです。」私が言った。
「じゃ、これくらいの大きさで、これぐらい、薄い感じでね?模様はどうする?」そう言って、ヤマキさんが作品を一つ、持ってきた。「わ、すてき。」と私が言った。四角い布に、白い模様の部分が二本の太い流れのように入っていた。「でも、白い部分がもう少し少ない方が。」と私が言った。「じゃ、だいたいこんな感じで、模様少なめ、ということで。」「やったあ、よろしくお願いします。」と私が言った。
ギャラリーの方も見せてもらった。服やタペストリーや小物も、何から何まで完全に芸術品だった。本当に「びみょおおお」な色のグラデュエーションで、これを作り出すにはどれだけ、浸してずらし、ずらしては浸しをしたんだろうと思った。
お二人目は、陶芸をやっていらっしゃるOさんだった。山のわき道を登ったところに窯と、やはりギャラリーがあった。OさんはSOYAの大豆の豆殻を、火のために使って作品を作られたそうだった。それをSさんたちは見に来たのだった。
「これです、これ、豆殻を使わせてもらったの。」Oさんが、作品が置いてあるなかの一画を示した。そのお皿は、不思議に緑色がかって、やさしい色合いだった。「すみません、写真に撮らせてもらっていいですか?」私が聞いた。「もちろん。」私は写真に撮りながら、全くもって類は友を呼ぶとはこのことだと、ただただ感じ入った。
Sさんもミコさんも、YさんもOさんも、みんな、何かものすごい迫力が感じられた。そしてお味噌や、藍染めや器などの作品には、みんな力があった。それはなぜかと考えてみたら、共通する部分は、自分の生き方をしっかりもっていて、それを一生懸命がんばっていらっしゃることではないかなと思った。
私は、意地っ張りだが、自分の生き方に少し不安になることがあった。病気になった時、このまま大学を続けられるか不安だった。しょっちさんと結婚する前は、大学もあり、病気もありで、彼とやっていけるのか不安だった。結婚した後も、しょっちさんのお母さんに「こんな私で良いんでしょうか?」尋ねたことがある。しょっちさんのお母さんは、「ほっちさんはあの子と暮らしてどう?」と聞いた。私は「それは…楽しいです。」と答えた。「そう、良かった。あなたに、あの子と暮らして楽しいと言ってもらえるなら、親としてこんなに嬉しいことは無いわ。」そう言ってもらった時、やっと私は、私が今の私、今の生き方で良いかどうかなんて、自分が決めることだと気がついた。大事なのは自分がどう感じるか、思うかで、周りにはそれが自ずと伝わるものなのだと思った。それなのに私は、まず周りの目、外からの評価ばかり気にしていて、一人で不安になっていたのだ。
Sさんたちも、仕事は大変そうだったけれど、とてもイキイキしていて、楽しそうだった。自分がこれと思ったことに、ひたむきに向き合っていると思った。
三人目の方を、病院へお見舞いに行くというところで、私は時間切れになった。夜行バスに乗る前に、お土産も買うつもりだった。「温泉はまた今度でいいかな?」Mさんが言った。「はい、もちろんです、いろんなものを見せていただいて、もう胸がいっぱいです。」と私が言った。それは正直な気持ちだった。「じゃ、仙台まで送ろう。途中だから。」とSさんが言った。
「スカーフ、多分時間かかると思うけど、できたら送るから。」仙台駅に着くと、Sさんが言った。「気をつけてね。」Mさんが言った。「どうもいろいろとありがとうございました。」と言って、息子さんにも手を振ってから、荷物を持って歩きだした。

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藍染めのヒジャーブ

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「ひっぽ」から小包が届いた。
開けてみると、「ほっちちゃん。だいぶ遅くなったけど、結婚祝いです。ハンカチはしょっちのです。」という短い手紙と、紙に包まれた薄い箱があった。箱のふたを開けると、薄い保護紙の下に、藍染めの布の作品が二つ、収まっていた。大きいほうをさっそく取りだし頭につけてみた。すぐに藍の香りがした。待ちきれずに、鏡のある方へとんで行って覗きこんだ。
それは、夜の闇のような色と、晩い夕方の空のような紺色が交じっていた。ところどころの白い模様は、ちょうど頭のてっぺんから右肩へ、花吹雪が散り落ちているかのようだった。確かに、ムスリム(イスラム教徒)の女性が頭につけて使うということを、意識して作られた一品に見えた。
「あの紫色の手をしたおじさん、うちのために染めてくれてんや。これこそほんまに世界で一つしかないヒジャーブやあ!」
お腹の底からじわあっと嬉しさがこみ上げてきた。しばらく鏡の中を見つめ続けた。
*
宮城県伊具郡丸森町筆甫(ひっぽ)に私が行ったのは、2002年の夏のことだ。「山の農場&みそ工房SOYA(そうや)」を見学するためだった。SOYAのご主人、Sさんに寄れば、「SOYA」というのは、英語で大豆のことを「soya beans」というところから来ているらしい。
Sさんと私の夫のしょっちさんは、二人が大学生だった時、海外の植林ボランティアの場で知り合いになったという。その時の記念写真が今でも残っている。
しょっちさんの話によると、Sさんはその後、味噌造りをするため、ひっぽに住むようになった。大豆と米を一から無農薬で作り、木の樽を使って、「山里ひっぽの元気な味噌」を造っていらっしゃる。
そんなつながりで、「わがやのお味噌はひっぽのお味噌!」と、私たちの結婚当初から決めていた。分厚いビニール袋に入った「元気な味噌」は、文字通り食べると元気になる。でーんと送られて来たのを見ただけでも、ほんまに元気になる。それくらいおいしい。そのうちに、どんなところでどんなふうに造っているのか、実際に見てみたいと思うようになった。
しょっちさんと私は、11も年齢が離れている。向こうは東京の人間、こっちは生まれも育ちも大阪人で、お互いすれ違うことも多い。しょっちさんのことを、もっとよく知りたいという気持ちもあった。彼が大学時代、どんなことをして、どんな人に会って、どんなふうに考えるようになったのか。Sさんに会えば、それが少しは分かるような気がした。
しょっちさんの強い勧めもあった。
「大学時代は、人生の窓が開いて、さらに窓が増える時だよ。そこから見える景色も人も。だから、できるだけいろんなとこに行って、いろんな人に会って、いろんな経験をした方がいいんだよ。」
しょっちさんは常々こう力説していた。特にひっぽ行きは強力に推していた。ただ、私の学校が忙しくて、思ってすぐには実現しなかった。結婚して一年経つ頃、やっと、夏休みを利用して行ける事になったのだった。
出発当日は、ぎりぎりまで学校の図書館で「算数科教育法」の課題をしていた。ふと顔を上げると、かなりやばい時間だった。スピードアップしてとにかく課題を終わらせ、レポート用紙を整えてホッチキスで止めた。そのままガバッと立ち上がると、図書館を飛び出し、ダッシュしてレポートボックスに課題を投げこんだ。A棟の横を駆け抜け、「エスカレーターを昇ったところ」までたどり着いた。
学生仲間の間では、いつもそうやって言われている場所だが、帰り道は足で階段を降りなければいけない。長い長い階段を下っていくと、最後には膝がカクンカクンするか、ガクガクして感覚がおかしくなる。
でも、下山する時の道や、山の上から見渡せる風景が、結構気に入っていた。春には、レンギョウやユキヤナギの、黄色や白色の花が階段の両脇を彩る。ソメイヨシノや里桜、枝垂れ桜、八重桜、山桜も順に咲く。夏には、ブッドレアの花を除き、山ツツジ、コデマリなどもみんな、田んぼで伸びかけの稲のような緑色だ。
向かいの山の斜面には、ぶどう畑が見える。K市やY市の町並みがぐるっと見えるし、天気の良い時には、もっとずっと先まで見通せる。「今からあそこに帰るんだな」と思う。山の上では私は学生だが、山を下るうちに、しょっちさんの妻としての顔や、アルバイト先での「先生」の顔になっていく気がする。
今日は、旅の者の顔だ。何百とある階段をあまり意識しないで、タタタタタと駆け下りた。そのまま校門を過ぎ、タラノキと桐の木を横目に見て駅へ向かった。朝、太陽の光を受け、葉っぱをキラキラ輝かしていた木たちが、だんだんその陰を濃くして立っていた。
家に帰り着いて、汗びっしょりの服を着替えた。準備していたカバンに忘れ物が無いか、さっと見た。それから、トルコの青いヒジャーブを手に取って、頭にふわりとのせた。色も薄さも夏にぴったりの、一番のお気に入りのヒジャーブだ。
両方のこめかみの少し上で、後ろから寄せてくる布の形を整える。そのまま手を喉元へすべらせ、きゅっと引いて安全ピンで留めた。しばらく鏡を眺め、ヒジャーブと自分の顔を吟味した。前にたらした布の片方を後ろへ翻し、肩に荷物をひっかついだ。部屋のものを全部なぎ倒しそうな勢いで、いざN駅へ出発した。
私は普段、大学やアルバイトに行く時などは、ヒジャーブをつけていなかった。本当は常につけておきたいが、仕方ないとあきらめていた。9月11日のテロ事件以降、案の定大学でもよくイスラム教の話題が出た。そんな中へヒジャーブ姿で行けば、質問攻めに遭いそうでイヤだった。アルバイトに関しても、ヒジャーブ着用は駄目だと採用を断られた話を、周りのムスリムからよく聞いた。認めてくれる職場が見つかるまで、何件もまわるなんてそんな、面倒で心が傷つきそうなことは御免だった。
家の前の通りにでると、行き交う人々の視線が、いつもよりゼロコンマ三秒くらい長く、こちらを投射するように思えた。電車に乗っても、何か見られている感じは消えなかったが、他のことを考えて気を紛らわせた。
私は旅行が大好きで、よく行くのだが、今回は、結婚後初めての一人旅だった。私一人だけで、仙台への夜行バスに乗る。車中泊を含めて三泊四日の予定だった。しょっちさんとそんなに長く離れるのも初めてだ。少し寂しく思った。
N駅でしょっちさんとおちあい、夕食にオムライスを食べることになった。
オムライスを注文したら、小さなスープがおまけでついてきた。明らかに、私たちには食べられないものだった。二人で顔を見合わせてためらった後、しょっちさんが、
「すいません、これ…これ、下げていただけますか?」
と言った。店員さんが、一瞬ものすごい表情をしたのが見えた。
私は、とても申し訳無い気持ちがした。あああ、先に聞けばよかった、と思った。「聞くは一時の恥、聞かぬはめっちゃ失礼」だ。せっかく持ってきてくれはったのに。またイスラームのイメージがわるなったらいややなあ、と思った。
埋め合わせに、オムライスを持って来てもらった時、思いっきり笑顔でお礼を言った。お勘定の時も、自己記録最大くらい、愛想良く振舞ったつもりだ。
仙台行きの夜行バスは、比較的出発時間が早い。すぐバスターミナルに行く時間が来た。バスターミナルに着くと、ロビーでベンチに腰掛けた。
電光表示板の行き先表示が、一つ一つ繰り上がって、仙台が近づいてきた。「はい。八番乗り場。七番乗り場。二十時三十二分発。仙台行きです。」
「よっしゃ行こ。」
立ちあがると、しょっちさんも荷物を持って続いてくれた。ロビーから外の道路に通じる扉が開くまで、チケットを用意して待った。ガシャーという、扉が開く音と共に、外の車の音がロビーに入ってきた。私がチケットの確認を受けている間、しょっちさんが荷物をバスの下部へ入れてくれた。
ムスリムの挨拶を交わして、バスに乗りこんだ。席に着いて前の方を見たら、しょっちさんが背筋を伸ばして、まだ立っていた。ふ、と笑ってもう一度手を振ったら、バスが動き出した。
柿色の街の光をくぐって、バスは茨城から名神高速に入った。やがて、運転手さんの車内説明があり、その後消灯になった。カーテンを閉め、顔の乾燥防止に、ヒジャーブを目深にかぶって、寝る態勢に入った。こういう時ヒジャーブは便利だ、寝顔も見られないから恥ずかしくないし、と思った。明日、どんな景色が見られるか楽しみだった。

*
ぼんやりと目が覚めた。バスはごうごうと走り続けている。まだ暗い。いま、何時だろう。眼鏡をつける前に時計を見ると、四時か五時の形だった。どこを走っているのかなと思った。カーテンを少し開け、すき間に頭をねじ込んだ。
(え、海?)
まさか海のはずはない。宮城へ行く途中で、海の中の道を通るなんて、聞いたこともない。眼鏡をつけ、無理やり目を全開にした。一面まっ平らな世界が、やがてはっきり見えてきた。
(田んぼかあ!)
小さい時から田んぼには見慣れてきたが、これほど広大で平らな田んぼは初めてみた。山の斜面を利用した、「棚ン田」と呼ばれる段々の田んぼがほとんどだったからだ。
(でっかあ…)本当に、右も、左も、地平線までもずっと田んぼだった。時折フラッシュで、家や木が見えては消えた。後はどこまでも田んぼだ。
青い看板で、「新潟」という字が見えた。(ああ、そうかあ。さすが新潟やなあ。)私はそれで納得し、すっかり感じ入った。そのまま一時間ほど飽かずに外を見ていた。
もう一度目が覚めると、他の乗客たちが降りる準備をしていた。仙台駅までもう少しというところだった。ヒジャーブの形を整え、降りる準備をした。大きなビルの中を進んで、駅から少し離れたところに、バスは止まった。荷物を受け取って、駅ビル目指して歩いた。
ビルに着くと、まずしょっちさんに連絡した。それから、Sさんのお宅に電話した。Sさんの妻さん、Mさんが出てくれた。「槻木」に着いたらまた電話するように、とのことだった。
槻木駅まではすぐだった。ぼうっとしているとすぐ着いた。また電話をして、今度は阿武隈急行に乗りこんだ。
阿武隈急行の電車は、しょっちさんと帰省する時、途中で乗る電車に似ていた。ワンマンカーで、降りるときは自分でボタンを押して扉を開けるのだ。しょっちさんは、「寒いところではこの方が効率がいいんだ」と言っていた。ちょっと懐かしい気分になった。
阿武急に乗っていておもしろいなあと思ったのは、途中の駅名全部に、「古墳と歴史ロマンのまち」というような枕詞がつけてあることだった。次は何だろうと興味がひきつけられた。そうこうしているうちに、丸森駅に到着した。
改札口を出たところで、Mさんが待って下さっていた。「どもー。」Mさんが言った。眼鏡の奥から目がバチッとしていて、ポニーテールに、エスニック調のワンピースを着て、とても活発そうな方だった。「おはようございます、どうもありがとうございます。」荷物を持ってMさんの後に続いた。そして、大きなワンボックスカーに乗せてもらった。
ひっぽに行く前に、Mさんのお買い物があった。スーパーの前で、作業をしていたお兄さんが、「こんちはー。」と声をかけてきた。「どもー。」Mさんが言った。「こんにちはー。」私も言った。「この人も、ひっぽに来るの?」お兄さんがきいた。「いやいや、それはまだ分かんないけど。」Mさんが言った。
ソーヤには、いろいろな人が見学に来るようだった。ソーヤにとって、そのことは一つには、環境について考える場を提供するという意味があるらしい。ソーヤ自体が、そういう目的もあって始められたからだ。もう一つには、実際にひっぽに住んで、共にソーヤの農作業や味噌の仕事をやっていく仲間探しのためのようだった。
買い物が終わり、再び車に乗りこんだ。朝のまち、といった風景が、だんだんと、くねくねの山道になっていった。
道の両側に木が並んでいて、トンネルのようになっているところがあった。きれいな黄緑色の光が差していた。「うわあ、めっちゃきれい!」と言った。Mさんが、「ここは、『緑のトンネル』って呼ばれてるの。でも無くしてしまえって言われてんの、邪魔だから、って。」「んー…」私は何とも言えなかった。それでも、繊細で水に透けるような黄緑の木もれ日は見事だった。
さらにくねくね行くと、道をおばあさんが歩いていた。「どもー。」とMさんが車を止めて、おばあさんに車に乗るよう勧めた。おばあさんは、にこにこしながらおじぎをして、車に乗った。おばあさんの家は、Mさんたちの家に行く道の途中にあった。車を降りると、おばあさんがまたおじぎをして、のんびりした感じで歩いて行った。
「Mさんは、どうしてひっぽに来られたんですか?」と私が聞いた。「田舎で鍼灸師やりたかったから。」Mさんが言った。Mさんは鍼灸師さんだった。ソーヤに電話すると、「こちら、ソーヤとM治療院」という留守番電話になる時がある。
話しているうちに車は進み、とうとう、Mさんたちのお家が見えてきた。田んぼや畑が周りにある坂を、登ったところにあって、さらに後ろには斜面が見えていた。昔、桑畑だったところを、一本一本引っこ抜いて、大豆を植えるようにしたらしかった。お蚕さんの作業場を味噌倉に、休憩のための場所を家に、再利用したらしい。そんなわけでお宅は、昔は一間しかなかったそうだが、現在はかなり建て増ししたということだった。見てみると、外見はすっかり、ふつうの家の大きさだった。家の周りには山が、もこもこと迫ってきていた。
軽トラックが置いてある横に、Mさんが車を停めた。車から降りた。「うわっ、すっずっしい!」と思わず言った。空気がめっちゃ涼しく、めっちゃ気持ちいいのだった。
それから、家の中に入らせてもらった。「前は、この部分しかなかったのよ。」とMさんが指した。現在は居間になって、台所に続いている部分だった。そこから、すてきな板張りの廊下があった。その向こうに部屋が続いていた。パソコンが置いてある部屋もあった。
小休憩が終わると、とりあえず、畑にいるSさんにご挨拶してこよう、ということになった。その前に、外に出たついでで味噌倉を見せてもらった。
戸を開けて入ったら、わあっとお味噌の香りがした。途端に、ものすごくでかい木の樽が、でーんでーんとたくさん居座っているのが見えた。それぞれ上の方と下の方、おなかに、はちまきを締めているみたいだ。全部に覆いが被せてあった。
「大きいですねえ。こんなんどうやって天地返しするんですか?」と聞くと、「そう、だから天地返しの時は、一寸法師みたいにたらいに入って、味噌の中に浮かんで、シャベルで樽から樽へ移しかえるの。そうじゃないとできないから。」と教えてもらった。
Mさんが、小さめの樽のふたを取って中を見せてくれた。「ここから袋に移し変えて発送するのよ。」
「ううわああ…」大迫力の眺めだった。お味噌が「味噌!味噌だ!」と主張していた。これほど大量のお味噌は見たこともなかったけれど、あいかわらずおいしそうだと思った。
味噌倉を出て、畑に向かった。「そこ、気をつけて。」と言われて見てみると、赤く細い線が張ってあった。「いのしし対策でね、触れるとピシッとするよ。」よく見ると、畑を囲んで、地上三十センチメートルぐらいの高さに、ずうっと張られていた。後から知ったが、それを「電牧柵」というそうだ。私は急にビクビクしだした。「まあ、縄飛びでぶたれたくらい『らしい』から。」とMさんがいった。
こわごわ線を越え、Sさんのいる斜面の方へ歩いていった。Sさんと、もう一人のお客さんは、大豆畑の草抜きをしていた。「こんにちは。」「ああ、着いたの。」Sさんは、おヒゲがかっこいい、優しそうな方だった。「もうすぐお昼だね。」そんな話をしながら、またSさんは草抜きをしつづけていた。「あ、大豆の花だ。」私は写真を撮った。それから、草抜きを始めた。すこし経って、Mさんがお昼ご飯を作るのを手伝いに行くことになった。
お昼の頃には、SさんとMさんの息子さんも保育園から戻って来ていた。
本番の畑仕事の前に、服を着替えた。Sさんが、「作業をするなら汚れてもいい服を持って来てね。」と教えてくれていたから、ヨレヨレのジーンズと、ユルユルの長袖シャツを持って来ていた。着替えて、ヒジャーブは作業用に海賊みたいに結んだ。靴を変え、軍手をはめた。
「ほら、あそこ見て。」畑に行く前に、Mさんが教えてくれた。「ピッピッて、ここから電気を流してるのよ。」見ると、家の外壁に取り付けてある、はと時計ぐらいの大きさの装置が、一定間隔で信号を発しているみたいだった。そろそろと線をまたいで、畑に向かった。
もうSさんは草抜きを再開していた。「今日中に、何とかここは、終わらせたくてね。」とSさんが言った。「この列は、私が抜きますね。」そう言って、作業に入った。畝は、斜面に縦に並んでいた。黙々と作業しながら、Sさんと私が近づき、横に並んで、また離れていった。近くて声が聞こえる時は、おしゃべりする時もあった。
「しょっちは元気?」「ええ、元気です。」「昨日夜に電話かけてきたよ。」「えっ、そうなんですか。」「そう、『ほっちをどうぞよろしく』なんて改まって。」そう言ってSさんは懐かしそうに笑った。
「大樽、最初にしょっちさんも運んだそうですね。」「そうそう、作業服がね、今でも残ってるよ、残しといてーなんて、しょっちがねえ。」そしてまたふふっと笑った。
「あの電線に、他の虫とかがピシッとなってしまうことは無いんですか?」と私が聞いた。「地面とアースしてないと、電流が流れないから、あ、ほら。」Sさんがそばの線を指差した。とんぼが止まっていた。「ほんまや。」私が言った。「地面に足をくっつけていないと、流れないんだよ。電気は電線から地面へ抜けるから。」「なるほど。」何か意味深長な感じがした。
出し抜けに始められる話は、いつも、最後の方は聞こえなくなり、フェイドアウトしていった。
雑草はものすごく元気だった。耳元でアブや蚊や、その他大勢がブンブン騒ぎまくっていた。斜面は日が照りつけ、汗がボトボト落ちた。大豆は、それでもがんばって生えていた。これが、来年には味噌になるんだと思うと、厳かな気分になった。
「終わったね。」日が暮れかかる頃、Sさんが言った。「もうそろそろ家に入らないと、ブヨがたくさん出てくる。」Sさんが言った。「もう刺されたよ。」「そうですか?」「えっいない?刺されてない?」Sさんがちょっと驚いて言った。
普段よく蚊に刺されるのだが、その時はまだ一匹にもやられていなかった。「いるよお、ほら、ここも。」ちょうど一匹のでかいブヨが、Sさんの腕を刺していた。「まだみたいです。」「ほんとう?いいなあ!ひょっとして、その格好のせいかな。スカーフは虫にも効くのかもね。」とSさんが言った。
夜になった。空気がまた格段と涼しくなった。夕ご飯をご馳走になった。「あ、家のは石鹸シャンプーだから。」Mさんが言った。「はあい。」そう言ってお風呂に入らせてもらった。
お湯をいただいて上がると、家族団らんの風景だった。お二人の息子さんは、ほとんどいつも機嫌がよく、ニコニコ笑っていてとてもかわいい赤ちゃんだった。MさんもSさんも、笑顔で楽しそうだった。私も幸せな気持ちになった。私の両親はけんかが多かったので、ああ、こういうご家族もあるのだなあと思うと、希望が持てるような気がするのだ。そして、しょっちさんのことを想った。
今回の旅は以前と違うな、と思った。以前の旅は、親のところから出発していた。今回は、しょっちさんと私の場所から出発した。以前は、自分の場所を探しに行く、フラフラした旅だった。今回は、自分の場所はもう決まっているから、それを確認している旅のようだと思った。
「こんなのが、イッピキいると、ほんと楽しいよね。」Mさんが息子さんを見ながら言った。「二人だけの時も、ひっぽの十年後はどうなるだろうなんて、考えたりしてたけど、こうして子どもがいると、具体的になるっていうか。この子が十歳の時はひっぽはどうなってるかな、とかね。」
「丸森からここへ来るあいだで、子ども見た?」Mさんは言っていた。「ううん…確かに…」私は自分で答えながら驚いていた。一人もいなかった。これからのひっぽは、どうなっていくのだろう、と思った。
寝る場所は、すてきな板張りの廊下にしてもらった。水に浮かんでいるみたいに、最高に気持ちが良い場所だった。布団に横になっていると、下には地面を感じ、上には星が出ているような感覚がした。
一日のことを思い返せば、つくづく、MさんとSさんはすごいなあ、と思った。とても素適な生き方をされていると思った。電牧柵には注意しなくてはいけないけれど、きちんと地に足をつけて、自分がやろうと思ったことに忠実に、毎日着実に歩いていく、そんな感じを受けた。

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●「むだ」に過ごす  2004年3月

最近、「むだに過ごしたときの島」という本を読みました。「え、むだ?」図書館で最初にこの本を見かけた時、そう思いました。前扉部分には、「いらいらしてる?しなければならないことがありすぎる?」から始まる説明の言葉。そこに思いっきりドキっと来た私は、さっそくその本を借りて読んでみることにしました。 テンポの良い、おもしろい物語で、すぐに読めました。しかし読んだ後、非常に考えさせられるお話でした。

「むだに過ごしたときの島」というのは、何でもかんでも、とにかく迷子になったものが集まってくる場所です。そこでの時間は、ものすごくゆっくり流れています。「むだに過ごしたとき」でできているからです。でも、「むだに過ごす」ことには二通りあって、良い「むだに過ごす」仕方と、悪い「むだに過ごす」仕方があるのです。そして、悪く「むだに過ごしたとき」は、毒の煙となって、それを吸い込んだものに恐ろしい影響を及ぼします。

誰だってみんな、一生懸命で、時間を「むだ」にしてはいけないと思いながら、必死でがんばっているのではないかと思います。でも、「むだ」って何だろう。「時間が無い、時間が無い」ってよく言ってしまうのは、どうしてなんだろう。この本を読んだあと、そういうことについて、じっくり考えたいと思うようになりました。ミヒャエル・エンデの「モモ」というお話にも、「時間泥棒」というのが出てきますが、「むだに過ごしたときの島」には、そういった悪者は出てきません。だから余計に、普段の自分を省みることになりました。

あまりにも、やらなければいけないことに追われすぎると、何でもかんでも「義務」になり、毎日の生活が息苦しいものになってしまうと思います。いま自分が、本当にやるべきことは何だろう。いま自分が、本当にやりたいことはなんだろう。私にとって、本当に大事なことは何だろう。そうやって、ふと、ゆっくり考えてみることも、大切だと思います。

先日、夫と私は、話し合いをしました。よくするケンカとはまた違って、かなり深刻に二人の今後のことを考える話でした。どうも、いろいろなことがうまく行っていなかったのです。私は、イライラとため息をつき、近ごろ生活が楽しく感じられなかったことを、相手のせいにしたりしていました。話し合いが長くなり、また時間が「むだ」になったと、さらにため息をつきました。翌日、夫が、「いろいろとたいそうな意見を言っていても、私は結局、あなたにもっと私を見てほしいんだって、それだけだったんだって気がついたよ。」と言いました。

その時にふと、ああ私は、良くないほうの「むだ」に過ごすということをしてしまっていたんだな、と思いました。学生生活、結婚生活、そしてアルバイトと、今まで必死で走って来たけれど、もうそろそろ、少し余裕をもって、自分や周りを見つめ直してみる時期ではないかな。そう思うと、夫のことでわだかまっていた思いが、ふうっと消えていきました。そして、ゆったりとした気持ちで、二人で一緒に時間を過ごしていると、夫の言うこともそれまで以上によく理解できました。
こたつを囲んで座り、お茶を飲みながら、ほとんど何もしていない時間でしたが、決して「むだ」とは思わない、充実した時間でした。「こんなにゆったりしたのは、久しぶりだね。」とつぶやきながら、私は、これからもまた、何とか生活していけそうだな、と思いました。

『むだに過ごしたときの島』
シルヴィーナ・ガンドルフィ作 泉 典子訳 世界文化社
●「死」についての読書案内    2004年11月

先日、やっと卒論(卒業論文)のアウトラインを提出することができた。読み返して気づいたことがある。そこに出てくる事柄は、卒論に取り組み始めるよりずっと前から、すでに出会っていたことが多いということだ。読もうとして、その当時は難しそうに思えて読まなかった本、気になりながら放っておいた事柄などなど。以前のノートや、レポートなどを読み返すと、分かっているつもりのことに再発見があったり、すっかり忘れていたことを思い出したりすることがある。私は、日記や各種の記録ものが苦手なのだが、そういうことは結構大事だなと思った。
今回は、そんな卒論のアウトラインに出てくる事柄の中から、
「死」についての読書案内として、2冊の本をご紹介します。

一つ目は、『未来分析』。これは、学校のレポート課題の対象だった本である。1章ごとに要約と感想をまとめなければならず、3年前の当時はとにかく必死にこなしていた感じだった。まさか、自分の卒論の中心的文献になるとは、想像もつかなかった。

3年前のレポートには、「元気になれる科学があったって良い、感動する学問があっても良い、泣きそうになる研究があっても良いんじゃないか、と思った」などど、やや興奮気味の、えらく感動したらしい感想が記されている。なぜ当時そんなに感動したのかを、冷静に考えてみる。

私はそのレポートを書いた時、病気と経済事情により大学を1年休学した後、復学したばかりだった。復学直前にした結婚生活も、まだ不安だらけだった。「治らない」と当時言われた病気のことが、とにかくショックで、自分のこと全てに自信を失っていた。また、時々来る猛烈な痛みへの恐怖が、痛みの無い時にまで影を落としていた。今なら、予期恐怖ともいうべきこの現象にもだいぶ冷静になれるのだが、あの時はひどく怯えたし、死ぬかも知れないと思うこともあった。痛みの最大値がどんどん上がるに連れ、この延長線上には何があるんだ、どうなってしまうんだと、自動的に考えてしまうのだ。
そんな当時、この本に出会った。ひとことで言うと、「因果律(因果)」は、時間の流れの方向に、必ずしも一致しないということと、未来を志向することの重要性を説いた本である。

例えば、「弾丸」と、「船」のモデルがある。弾丸は、一度発射されると、その行き先は、撃った時の強さや方向などに規定される。弾丸が途中で行き先を変更したりはできない。ところが、船には舵があり、ある時点を切り取ってみたところで、その行き先は、出発した時点の強さや方向などには関係ない。これからどうするかの舵取り、目的地へ向かっての舵取りに規定されるのだ。

私は日ごろ当たり前のように、過去はこうだったから今はこう、将来はこう、とか、今がこうだからどうせ将来もこう、などと思っていたが、この本の「人間には舵がある」という記述に、非常に感動したのだ。以前も痛い、今も痛いから未来もきっと痛い、と恐怖に慄いていた状態から、目標や夢をもってそれに向かっていくように変わったのだ。もちろんそれ以前にも、前向きな考えを全然していなかった訳ではないが、理論付けというか、決定打になったのである。そしてその時に私は、未来分析やその基になっている発達人間学を研究しようと決めたのだった。

私の至らない表現では、うまく説明し尽くせませんが、
すっと読める分かりやすい本なので、ぜひどうぞ。
2冊目は、『鏡の中、神秘の国へ』。

この本は、重い病気の女の子セシリエのところへ、天使アリエルがやってきて、存在や生と死、世界について哲学的な話を繰り広げる、という内容。こう書くと、何か陳腐のようだが、全くもって「お決まりのパターン」「お涙ちょうだい」などとは異なっている。非常に鋭くて、深い、ごまかすことなくしっかりと考えている話だと思う。
私の一番好きなところはこれだ。

「生まれるってことは、世界をそっくりプレゼントされるってことなんだ。」(アリエル)p37
世界に子どもが生まれるのではなく、生まれた子どもに世界がプレゼントされる、そう考えると、良いこともつらいことも全てアッラーから与えられたものという考え方が少し分かる気がする。

この話を読みながら、共感したり、感動したり、発見したり、いろいろなことを思い、考えた。特にラストは、固定観念を打ち砕かれた。そうか、死ぬって、こういうことかも知れないなと思った。

私は、痛くて「死ぬかも知れない」と思ったことは何度もあるが、死にたいと思ったことは一度だけある。正確には、アッラーに「あなたのそばに行きたい」と願ったことが一度だけある。「もう一人では無理だから、誰か人を与えてくださらない限りは」と。いろいろな問題があった時期で、それを一人で飲み込むしかないと思いつめていたときだった。結局その時は、そう願うことで少し楽になったこともあり、また人との出会いに恵まれて、次に進むことができた。

病気になったことで、死や、生きることについてすごく真剣に考えるチャンスをもらって、本当に良かったと思っている。死にたいとはもう思わない。今は、研究や、生活や、身の回りのこと全て、いろいろなことがおもしろくて仕方が無い。生まれたての赤ちゃんのような気持ちだ。嫌なこと、恐ろしいこと、すごく心が痛むことなども勿論あるが、それでもやはり、アッラーの創造された世界は、本当に素晴らしいと思う。
いつか私が死ぬ時には、私はこの世界との別れを惜しんで泣くだろう。そして願わくばアッラーの元に帰れたなら、あの時の願いをとうとう叶えてもらったと、また泣くだろう。
そんなことをこの本を読んで考えたりした。
物語としてもとてもおもしろく、子どもでも楽しく読める本だと思いますので、
ぜひ一度ごらんください。
今回ご紹介した本
『未来分析』 守屋國光著 ナカニシヤ出版
『鏡の中、神秘の国へ』 ヨースタイン・ゴルデル著 池田香代子訳 NHK出版
●「クリスマス」の物語、2冊。        2005年12月

姉や私が幼かった頃、両親はよく寝る前に本を読んでくれました。たいていは福音館書店の子ども用月刊絵本で、毎回5、6冊は読んでもらいました。そのせいか姉も私も、早くから自分で本を読むようになり、本が好きになりました。
あるクリスマスの日の思い出です。私は「サンタさん」に、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』をお願いしていました。私のお願いの内容は、家族みんなが知っていました。クリスマスの朝、目覚めると、枕元にはなぜか二つプレゼントが置いてありました。一つは簡素に包まれた図書券でした。もう一つはプレゼント包装された『はてしない物語』の本でした。それを姉に知らせると、これまたなぜかとても驚いていました。当時中学生だった姉の話はこうでした。
―夜遅くまで起きていて、寝ようとした時、ぜふら(注)の枕元を見たら、プレゼントが無かった。お父さんもお母さんも寝ていた。これは、お願いが届かなかったか、それとも無理だったかということで、このままではまずいと思い、急いで手持ちの図書券を包んでプレゼントにした。ぜふらがあの本をあんなにほしがっていたから―
(注:このとき、私はまだ「ぜふら」ではなかったですが、WEB用に編集しました)
当時小学校中学年だった私は、正直にお話しますと、最初はこの話をいぶかしいと思いました。でも、同時に、その何倍も何倍も、嬉しいと思いました。図書券は、確か、『はてしない物語』の代金には届いていませんでした。それでも、姉の気持ちが嬉しかったのです。図書券は、本好きの私よりも、さらに本の好きな、「本の虫」の姉の大切な宝であったはずでした。今でもクリスマスの時期になると、教会のことやケーキのことと合わせて、このプレゼントのことを思い出します。

というわけで、今回は、「クリスマス」の物語を2冊、ご紹介します。
まずは『飛ぶ教室』。このお話は、この長さの本との出会いにしてはめずらしく、最初、母に読み聞かせをしてもらいました。よほど母が気に入っていたのかも知れません。一日一章のペースだったと思うのですが、「前書き」が二つもあって、それも普通の章と同じくらいの長さでしたので、二日間「前書き」をきくことになり、子どもながらに驚いたのを憶えています。それでもこの「前書き」は気に入って、作者と同じ「みどり色のえんぴつ」で「おはなし」を書こうなどと試みたこともありました。

「こんどこそ、ちゃんとしたクリスマスの物語を書きます。」と、前書きは始まります。最初にこれが無かったら、はじめのほうは、学校を舞台にした、冬のお話かなあ、くらいに思うかもしれません。ドイツのある寄宿学校で繰り広げられる、いろいろな事件や、勇気について、大人に近づいている子どもの友情について、子どもの心を忘れない大人の友情について、先生と生徒の信頼についてなどなどが書いてあるからです。
それまでの話もとてもおもしろいのですが、最後はクリスマスにまつわる話に物語が集約されていきます。
主人公のマルチン=ターラーという少年が、彼の家庭にお金が無くて、クリスマスなのに学校から我が家へ帰れないことになります。それまで物語の主軸で、その賢さと勇気でリーダーシップぶりを発揮していた彼が一転、ショックのあまり何に対しても身が入らなくなってしまいます。周りはどんどんクリスマスムード、帰省ムードになっていくなか、彼は一人、誰にも相談もせず、苦しみます。 彼の両親も同じでした。

しかし、マルチンの変調に、彼の仲間よりもよく気がついていた人物が一人、いたのです。最後は、思わぬところで、あるいは必然的ともいえるところで、物語が展開します。

ドイツのクリスマスの一つの形をみた後に、今度は19世紀のイギリスのクリスマスの一つをみてみましょう。次にご紹介するのは、ディケンズの『クリスマス・キャロル』です。

『飛ぶ教室』を、子どもでもつらく悲しいことはあるのだ、ということでまとめるとすると、『クリスマス・キャロル』ではその逆で、大人でもいつもむっつり難しい顔ばかりしていないで、気さくに知人を訪問したり、隣人のためにできることをしたり、仲間と楽しんだりするべきだ、ということが一つ言えると思います。

この作品を演劇という形で見たことがあります。原作と違い、主人公のスクルージは「変化」したところをあまり表には出しませんでした。表には出さないけれども、内側からにじみでるような、どこが違うと言われてもはっきりは言えないが確かに「変化」を感じさせるような、そんな演出でした。その方が人間らしくて、ずっと自然だったと思います。けれども、原作のスクルージのはじけるような「変化」の表わしようも私は好きです。

心暖まる」という形容がぴったりなこの2冊、ぜひ読んでみてください。

*今回ご紹介した本。(筆者の手元にある版。)*
『飛ぶ教室』 エーリッヒ・ケストナー/作 山口四郎/訳 滝平加根・/絵
講談社青い鳥文庫
『クリスマス・キャロル』 ディケンズ作 脇 明子訳 岩波少年文庫
*         *        *

●「ちょっと大人になる?」物語、2冊。
2006年1月

ある年の成人式の日、私は友達と、その日までが期限の「初詣一日乗り放題きっぷ」を使い、奈良の神社仏閣を見て回ったことがあります。花の長谷寺、橿原神宮、薬師寺、生駒山、東大寺、興福寺、そして締めくくりは若草山の山焼きを見ました。非常にハードな一日でしたが、良い思い出です。ついでに、当時大学で、「宗教史地図 仏教」という講義を受けていたのですが、その講義のレポートにも使いました。

さて今回は、「ちょっと大人になる?」をテーマに2冊ご紹介しようと思います。筆者としては、題名(邦訳名)がおおいに気になる2冊でもあります。

一冊目は、『ヒーローなんてぶっとばせ』です。翻訳というのは、とても難しいお仕事だと思うし、題名を訳すのはいろいろと迷うこともあると思います。でも、この題名にはちょっと「ええ~」と思ってしまいました。題名及び表紙と、中身のギャップが激しいのです。この作者の他の作品、『クレージーマギーの伝説』などと同じく、この作品も鋭く、シビアです。

舞台はアメリカ、主人公は図体のでかい、勢いの良いこわいものなしの男の子、あだ名はクラッシュです。その子の価値観は、大きいほうが良い、たくさんのほうが良い、強いほうが良い、値段の高いほうが良い・・・終始その調子です。どこにでもいそうな普通の子どもとも言えます。その子が、ある男の子と出会います。ペン・ウェッブはクエーカー教徒。全くテンションの違う二人、ほとんどクラッシュがいじめているような状態ですが、あまりにも違いが大きすぎるため、クラッシュは「あいつは気にくわない」と言いながらもウェッブを常に意識してしまいます。

そんなクラッシュ、実は両親とも働くことに忙しく、家族そろってご飯が食べられることすらめったにありません。そして実は妹思いで、さらに、「スクーター」というおじいちゃんが大好きです。彼の強がったような心の均衡が、一気に崩れるのは、これらの関係が急変する場面からです。スクーターが、脳卒中で倒れてしまうのです。
スクーターが死んでしまうことを恐れ、われを忘れて買い物に走ったり、「スクーターが作ったのじゃなきゃいやだ!」と駄々をこねる妹に手作りケーキを作ってあげたり、他の子たち(首謀者はマイク)に「肉を食え」といじめられるペンを助けたり、峠を越えても「アバイ」としか発語できなくなったスクーターへの心配を抱え込みながら、無神経なマイクについに怒りを爆発させたりします。あんなにこわいもの知らずだった彼が、手をふるわせ、泣きそうになりながら。

この物語の面白いところは、クラッシュの一人称で書かれているところです。最初のほうの、彼の価値観も押しが強すぎる行動も、「おれは・・・してやった。」と恥も外聞もなくはっきり書かれています。自分と違う考えの人間を外から見てあきれる様子、内心困惑する様子がよく分かります。
現実をズバッと描き出しながら、さわやかに読ませるスピネッリの本、他のものもぜひどうぞ。

2冊目は、『やったね!ジュリアス君』です。もうここまでくると、仕方ありません。原題が“You’re a Brave Man,Julius Zinmmerman”なので全くもって仕方ありません。中身がとてもいいので、ぜひ、特に中学生の人に読んでもらいたい作品なのですが、この題名で果たして手にとってもらえるのか、無用とは思いつつ心配しているのであります。

12歳の男の子ジュリアスが、母親のすすめにより、午前中はフランス語の講義、午後はベビーシッターという、ヘビーな夏休みを過ごすことになるというお話です。
はっきり言って、ドジばかりしてしまうのです。それも、もっと小さい年代の子のような、スカッとしたドジではなく、ぐんにゃり、うんざりのドジです。午前中はフランス語の先生、マダム・カウペルを相手に、午後はベビーシッター先の男の子、エジソンを相手に。母親ともうまくいきません。
しかしこの作品で際立っていると私が思うのは、ジュリアスの「思いやり」が深いという個性です。読んでいて、すごいなあと思うくらい優しいし相手を思いやるのですが、肝心の相手がそれを分かっていなかったり、受け止める余裕、あるいはそれに対する感謝を表現する余裕がなかったりして、全然報われないのです。それでも全く相手を責めたりせず、自分に冷ややかな視線を向け、さらに思いやるすごさです。小さな子どもの世話は、確かに向いていると思いました。
それから、自分が切羽詰った状況になっても、冷静に自分を笑えるセンスは共感できます。
最後は、確かにまさしく「やったね!」なできごとが同時にたくさん起こります。不器用だけど、思いやりの深い、彼らしいできごとです。題名のインパクトにくじけずに、ぜひ一度どうぞ。

*今回ご紹介した本。(筆者の手元にある版。)*
『ヒーローなんてぶっとばせ』(原題 CRASH)ジェリー・スピネッリ作 菊島伊久栄訳 偕成社
『やったね!ジュリアス君』(原題You’re a Brave Man,Julius Zinmmerman)
クラウディア・ミルズ作 玉村敬子絵 さ・え・ら書房
*         *        *

●「愛」に関する物語、2作。       2006年2月
2月といえば、節分です。豆まきです。そしてバレンタインディです。チョコレートです。チョコレートと言えば、私はチョコレートの出てくるお話が大好きです。ロアルド・ダールの『チョコレート工場の秘密』はその意味では最高です。それこそ大量に出てきます。でも、ほんの少し顔をのぞかせるチョコレートが、それがもつ本領を十分に発揮していることもあります。

『思い出のマーニー』という本とは、大学の先生に紹介してもらうという、私としては珍しい出会いをしました。しかも、紹介してもらってすぐには近所の図書館になく、あとになって偶然新しく入ったのを発見できたのでした。 先生は小さい頃からこの本が大好きだったそうです。その先生は、心理のカウンセラーでもある方だったのですが、この本を読んで「なるほどな」と思いました。

物語は、両親を事故で失い、おばあさんも病気で亡くし、養い親のもとで生活していたアンナが、いきなり旅に出るシーンから始まります。ファンタジーとはかけ離れた、非常に現実的な状況です。アンナを送り出す、養母のミセス・プレストンは、読者の目にはとても親切そうです。でも、明らかに、アンナとの関係はぎこちない様子です。アンナも、表情も動きも何もかもが硬い感じです。どうしたんだ、この二人は?と思ったところで、出てくるのがチョコレートです。ミセス・プレストンが道中にと、アンナに渡してくれます。そのチョコレートをきっかけに、アンナもやっとひとこと、ミセス・プレストンにお礼を言うことができます。

その後で、アンナが旅に出ているわけが分かってきます。アンナは、ある事をきっかけに、「何にもしようとしない」「やってみようともしない」ことが多くなります。喘息の発作でお医者さんが来たとき、「転地」をしてみようということになり、ミセス・プレストンの知り合いの、海辺の村の老夫婦、ペグおじさんとペグおばさんに預けられることになったのでした。それでノーフォークへ向かっているのです。

結局、アンナの「自分探し」の旅なんだなあと、読んで思いました。途中から出てくる、「マーニーとは?」という謎がこの物語の中心なのですが、それもアンナへとつながっているのです。それから、いろいろな「愛」の形があるんだなあということも思いました。まずもって、ミセス・プレストンは本当の親ではありません。ペグおじさんペグおばさんはもっと他人です。後で出てくるリンゼー家の人々に至っては、最初は全く見知らぬ人たちでした。だけど、アンナをとても大切に思っているし、愛している、そんな感じが読んでいると伝わってくるし、やがてアンナもそのことに気がついてきます。そして、相次いで亡くなった両親や祖母へのとらえ方の糸口も見つけたように、私は思いました。
海や入り江、「しめっ地」などの描写もすてきな、『思い出のマーニー』原題は“WHEN MARNIE WAS THERE”、ぜひどうぞ。

2作目は、エンデに次ぐドイツ・ファンタジーの旗手と呼ばれることもある、ラルフ・イーザウの『ネシャン・サーガ』です。
この作品ともおもしろい出会いをしました。私の卒業した大学の図書館では、利用者の声を集める箱というのがあり、そこにいろいろな投書がありました。後にその投書は返事をつけられて、ボードに張り出されるのです。その中の一つに、「『ローワンと・・・』シリーズと『ネシャン・サーガ』ぐらいあって当然ではないか?」という意見があったのです。何が当然かというと、当時『ハリー・ポッター』シリーズが流行になっていて、教育系大学の図書館としては、他のファンタジー作品の一つや二つ「無いと困るってもんでしょう」、というような話だったと思います。ふ~んと思いながら、『ネシャン・サーガ』が入ったや否や、その投書の人よりも先に借りてしまったように記憶しています。とんでもなく分厚くて、図書館の閉館時返却ボックスに入れるのがしのびなかったことも憶えています。

この作品は、文句なしにファンタスティックなファンタジーですが、その特性をうまく生かし、根底に流れる「全き(まったき)愛とは?」というテーマに、非常に真摯に向き合っている感じがします。ただの「現実離れ」した話、では全然無いところが魅力だと思います。主人公のうちの一人の少年が、足が不自由で、車椅子を使って生活しているのですが、彼の話などもとても現実的です。そして、スケールが大きいですが、やはり「自分探し」なんだなあと思われます。
分厚い長編ですが、一気に読めること請け合いです。ムスリムの人も、この作品を読むと結構、考えるヒントを得られることが多いと思います。

*今回ご紹介した本。(筆者の手元にある、もしくは記録にある版より。)*
☆『思い出のマーニー』(上・下)ジョーン・ロビンソン作 松野正子訳 岩波少年文庫
☆『ネシャン・サーガ』(全3巻)ラルフ・イーザウ作 酒寄進一訳 あすなろ書房
・『チョコレート工場の秘密』ロアルド・ダール作 柳瀬 尚紀訳 評論社
・『ローワンと魔法の地図』など、リンの谷のローワンシリーズ エミリー・ロッダ作  さくまゆみこ訳 あすなろ書房

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2006年3月

今月は、去年11月、喉の手術のため入院した時の思い出から、「入院記」をおおくりします。人生、いろいろなことがありますが、いつでも自分の心の中にサラームがある、自分の内側からの平安に守られている、ムスリムでいて本当に良かったと思えた体験です。
*手術や入院中の経過に関しては、相当な個人差があることを最初に述べておきます。

11月24日 今晩眠れるのかな

朝から全く落ち着かなかった。前々日に10時に入院だと知らせてもらってから、何とか保っていた自分のリズムが狂ってしまっていた。なんだって10時なんだ?手術は翌日なのに。
出発は9時で十分だった。8時くらいからそわそわしていた。人生で2度目の入院。「入院ノート」を見ながら、持ち物の最終チェックをした。スヌーピーが青い星空を見上げているデザインだ。前の入院の時、真夜中に天井を見上げた思い出と重なった。このノートは、12月からはじまる「ほぼ日手帳」への橋渡しでもあり、薬アレルギー対策の重要な記録ツールの意味もあった。

10時5分前に到着した。書類を出して、少ししたら病棟に案内してもらった。
最上階の、緑の色調で統一された病棟だった。体調は確かに悪いけれど、まだ手術をしていないのに病室に入るのは変な気分がした。しかしとにかく荷物を運びこみ、すぐに片付けてしまった。

病室はとても機能的だった。ロッカーは大容量だし、ベッドの横にはウォールポケットがあり、薬が分類できるし、一人に一つ体温計が備え付けてある。
「とりあえず荷物片付ける。ヒマなので、体温測る。我ながらアホ」とノートに書いた。
その後看護師さんと面談があった。病棟や今後のスケジュールの説明などだ。こちらからも質問した。薬のアレルギーは当然のことだが、ムスリムであることも話した。入院中の食事のハラールの問題に対応してもらえることになり、ほっと一安心した。

案外、面談に時間がかかり、すぐにお昼の時間になった。デイルームで食べることになっていると思って、最初はうろうろしたが、私の場合手術後は病室で食べることになっていたので、このときも病室に運ばれてきた。
昼食後、ベッドの上でだが、仕切りカーテンもあり、きちんとサラートができた。アラビア語も目だけで練習していると、血圧と脈拍、体温を測る時間だった。そうこうしていると、主治医さんとの面談があった。外来で診断した医師と違う場合があると言われていたが、手術前の検査時の、女性の先生でほっとした。約1時間後に麻酔医との面談があった。もちろん、ノートにメモしながらだ。二つの面談を終え、「世の中はリスクでいっぱいだー!!」とノートに書いた。

面談が終わると夕食だった。夕食中、もう一人の麻酔医さんとの面談があった。夫のしょっちさんも来てくれた。おふろ(手術前は浴槽つきか、シャワーの好きな方を選べるが、私はシャワーにした。)に入って、少しテレビを見たらもう寝る時間だった。
総合的に考えると、前日入院、10時入院でよかったと思えた。

11月25日 今日は一日、絶食だあ~

入院二日目。今日は手術の日。6時ぐらいに目が覚めて、と思ったら看護師さんが来て、朝一番の検温。その後、朝日を見る。ファジュルもできる。
「あらかじめ唇に軟膏塗ったった~。朝日がポコッてしててかわいかった」
とノートに書く。昨夜塗ったのは、手術後の口内炎、口角炎発生時のため予め渡されていた軟膏。ちょうど唇が荒れていたし、手術で口角が切れたりするときき、「そんなんいややあ」と思ったので先に塗ったのだ。
朝食から絶食。手術は13時からということで、10時までは飲水OKだった。翌日の朝まで食べられないので、食事関係の荷物を整理し、ベッド周りをすっきりさせる。洗濯も決行。病棟内にランドリースペースがあって便利。洗濯の最中に朝一番の診察。手術は予定通り。診察(病棟内の一室である)から帰ると、洗濯の続きで乾燥も終わらせる。
10時になり、やることもなくなり、朝から動きまくった反動で眠たくなってちょっと寝る。その後、ズフルを済ませ、ズィクル、ドゥアー、アラビア語の練習とひととおり済ませると、万一の時のためのドゥアーをする。それももうやり切った感を得たくらいで、術衣に着替える時間になった。

13時になっても、呼び出しは掛からない。最新式のこの病棟、ナースコールだけでなく、逆に各ベッドに呼び出しもかかるようになっている。患者は、ベッドからかなり離れていても、小さな声でも応答できる。途中で、病室に新たな患者さんが入ってくる。術衣を着たままあいさつ。第一印象悪かったな~と心の中で苦笑した。

「2:15 歩いて手術室入り。だだっ広すぎるフロアに多人数のスタッフの方々。自分でベッドに寝る。」入院ノートには、こう冷静に記述されているが、実際は、内心は、冷静どころではなかった。
病棟から専用エレベーターで手術室のある階に下りた。フロアの半分がほぼ手術室と言えるくらい広かった。手前の「待ちスペース」のようなところで待っていると、看護師さんの申し送りの声が聞こえてきた。
しばらくすると話し声もやみ、今まで話をきいていた方の看護師さんに、肩に腕をまわされ、「さあ行きましょう。」ととびきり優しく言われたあと、いっしょに歩き始めた。
自動ドアを抜けるとすぐ手術室だった。前に手術したところに比べ、めちゃくちゃ広く感じた。大勢のスタッフの方が手術台を囲み、入ってきた私の方をみて「やあやあ」みたいな感じになった。
回れ右して走り出したいとほんの一瞬思った。歩く足が重く感じた。そして、自分でベッドに乗った。複雑な心境だった。
いろいろセッティングが終わり、「点滴一本だけ、ちょっとチクッとしますけど、すみませんねー。」と麻酔科医さん。そして、「はい、マスクつけま~す、ちょっと窮屈になりますけど、最初は酸素で~す。」とカポッとマスク装着。
「では麻酔、入りま~す。」
来たっ!麻酔!ひえ~っ!今まで透明だった酸素マスクの中に、煙のように乳白色の気体が入ってくるのが見える。と同時に、頭の中にもモヤがかかるようだった。緊張は最高潮に達し、万一の時のドゥアもすっかり飛んでしまい、シャハーダの言葉を大慌てで2回念じた。しかし、このまま寝ないのもこわいので、2回深呼吸した。「もうこれでいくな~」と思った。

「夢を見ていたら、すごい呼びかけられたのと自分の咳き込む音で目覚める。しばらく血痰でる。」
麻酔中は脳も眠るときいていたので、夢を見ていたのがびっくりした。さらに、麻酔から「醒めてもそんなにすぐにはシャキッと目覚めません、薄目があく程度です」と言われていたが、咳のせいかバチッと目が開いた。そしてすぐ、「この咳は手術のせいですか?」ときいた。
角度のせいか、周りの人の顔は見分けられなかったが、上の方から、「さぬきさ~ん、手術はうまくいきましたよ。」と主治医の先生の声がした。いろいろな人がいろいろ声をかけてくるので、まだパニック状態だったが、とりあえず上の方に向けて笑い顔を作ってお礼に代えた。挿管の時も何もトラブルがなかったとのことだったし、歯も折れていないし、口角も切れていなかった。弱々しい声だが、「アルハムドゥリッラー」と言って感謝した。

それから、次の日の朝まではつらかった。
「だんだん痛みが出てくる。神経がつながっているのか、顎が痛い気がしたり、舌が痛い気がしたりするが、結局手術した所の問題。微熱と、喉の渇きでつらいが、何とか痛み止め無しで乗り切る。 無意識にゴクリと喉を動かしてしまう度、痛みにびっくりする。」
夜も、「ゴクリ」となる度「ぎゃおーす!」と叫びたくなるくらいの激痛に驚いて、うつらうつらしていても20秒置きに目覚める、といった感じだった。しかし、ひたすら、次の日の朝食のことだけを考えて我慢した。私は基本的にハングリーな人間だ。よく、「ハングリー精神」とか言うが、文字通りそうだった。痛いことよりも、「お腹空いた~」という感覚が大きくて、それ以外はかすんでしまうのだ。今これだけ痛ければ、明日の朝食だっておだやかではないだろう、とか、そんな予測はしなかった。
あまりにも眠れないので、ヤー シャーフィーと500回ほど(数えたので本当です)念じたら何とか眠れた。

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シャハーダ後7年目に書いた文章です。

最近、新たにムスリムになられた方と、
お知り合いになる機会に多く恵まれているように思います。
そういう方とお会いできることは、私にとって非常に嬉しいことです。
どういういきさつでムスリムになられたのか、
というお話を伺うたびに、人知の及ばないアッラーのご計画の素晴らしさを、
目の当たりにする思いがします。
そして、一生懸命、イスラームのことを学ぼうとされているお姿を見るにつけ、
私もがんばらなくっちゃと身が引き締まる思いがします。

かくいう私も、ムスリムになって6年という時間は経ちましたが、
誇りを持って先輩ぶれることは全然無いと思っています。
以前私はよく、「新米ムスリムで~っす!!」という調子で、
勢いで意見をぶつけたり、質問しまくったりしていました。
今、さすがに「新米」とは、言えないんじゃないの?
という状況になって参りましたが、何か成長したか、どこか変わったか、
と聞かれると、非常にお答えしにくいのです

1年目。ほとんど何も分からず、暗中模索でした。
ムスリムの知り合いが非常に少なくて、
また自分自身でも殻に閉じこもりがちなところがあり、
相談したくてもできませんでした。
2年目。それまでも荒れていた家庭事情が、さらに悪化。
振りまわされて、生活をまわすのが精一杯でした。
病気になって入院しました。
3年目。私が(勝手に)イスラームの師匠と思っている方に
めぐり合う機会に恵まれました。
まだ家庭問題に振りまわされつつ、何とか受験勉強をしようと必死でした。
高校の先生方がいろいろと助けて下さいました。

4年目。大学に入学。現在の夫と知り合う機会を与えられました。
そしてまた病気が分かりました。
休学中、現在の音訳・点訳サークルの原形が、
ある方との出会いをきっかけに、できてきました。
5年目。ニカー(結婚)しました。休学していた学校にも戻りました。
実家の家庭問題がようやく落ちついてきました。
6年目。やっぱりいろいろ必死でした。しかし少しずつ、
「礼拝の時の言葉が憶えられない!」系統の事態が、
ようやく解消され、「もっとイスラームの勉強がしたい」
「アラビア語ができるようになりたい」という思いが
(それでもまだやたらと、抽象的な感じがしますが…)出てきました。

そうなんです、礼拝の時の言葉!決して大きな声では言えないのですが、
私、本当に、なかなか憶えられなかったんです!
それで、めちゃくちゃ悩んでいたんです。
やってもやっても駄目だったんです。
しかし、ある日突然、すうっと頭に入ってきて、できるようになりました。
不思議なものです。
このような具合で、全くもって、遅々たる歩みをしてきた私です。

けれども、それでも、やっぱり私は、新たにムスリムになられた方へ、
心からのメッセージを贈りたく思うのです。

本当に、本当に、シャハーダおめでとうございます!

あなたの上にアッラーのご加護と祝福がありますように。

たくさんたくさん幸せと、安らぎがありますように。

ひょっとしたら、大変な思いをすることも、あるかも知れません。
すごく疲れたりも、するかも知れません。

でも、多分それは、試練だと思います。
あなたはきっと、それを乗り越えられます。

ただ、一人で悩んだり、いろいろな気持ちを我慢したりする必要はありません。

焦らなくても大丈夫です。

アッラーはいつでも、そんなあなたのそばにおられると、私は思います。

そして、こんな私でよければ、相談して下さい。

イスラームについて勉強中の方にも、
何人かお知り合いになる機会を得ています。
中には、とてもよく学ばれていて、
「すごく良くご存知だなあ」と思う方もいらっしゃいます。
そんな方のお一人が、以前、「どうやったら神を信じることができるのか」と、
とても苦しんでいらっしゃったことがあります。
私は、自分にできる限りの言葉を尽くして、その方に説明しようと試みました。
本当にお辛そうで、私も胸が張り裂けそうな気持ちがしました。

最終的に私には、ドゥアーをする(祈る)ことしかできることはありませんが、
心からお祈りしたく思います。

アッラーがお導きくださいますように。

あなたの苦しさが癒えますように。道が見つかりますように。

そして、今日まで私を支えてくださった皆さんに、心から感謝します。
いろいろな素晴らしい出会いに、
勇気づけて頂いたお言葉に、見るだけで安らぐ姿や雰囲気に、
今思い起こせる限りの記憶に、感謝します。
また秋が近づき、7年目に入ろうとしています。

私がイスラームの教えに出会ってから、「自分はすでにムスリムなんだ」と言う、
突然のひらめきがあるまで、
実に3年という月日がありました。結構、頑なだったと思います。
それまでも、それからも、どうもありがとうございました。
そして、これからも、どうぞよろしくお願いします。

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03.12
―茨木のり子さんの詩、「自分の感受性くらい」に寄せて―
夫が、「今日はお土産があります。」と言って、嬉しそうに荷物を開けた。取り出されたそれは、まさしく「得体の知れない代物」そのものだった。でも、夫があんまり嬉しそうなので、しかも、私が必ずや喜ぶだろう、と思っているような顔つきなので、「それ、何?」のひとことを、ぐっと飲みこんだ。
その、直方体の、時代遅れのデザインの、怪しげな食パン様の機械は、なんと、テレビだった。

我が家には、テレビが無かった。結婚当初、私たちは、少ない経済力を効果的に使うために話し合った。そして、テレビは要らないという結論になった。貧乏ヒマ無しの生活で、二人すれ違うことの多い中、会話を大切にしたいという思いもあった。けれども、やはり「これだけは見たいなあ」と思える番組もあって、そういう時、テレビがあったらなあと思った。

6インチの画面、30センチの奥行きのそのテレビは、我が家の食卓にちょこんと乗ることができた。夫の会社の人から、要らなくなったとのことで、もらって来たらしい。やけに目立つコンセントを差し込んで、チャンネルを文字通り、くるくると回す。画面に微妙な縦線が見え、横にスライドしていく。でも全然何も映らない。何かケーブルが要るらしかった。その時点で、すでに私のわずかな興味関心は薄れ始めていた。テレビは要らないという約束は、二人で決めたことなのに、と少し不機嫌に思うところもあったからだ。

しかし、夫はあきらめなかった。別の用事でホームセンターに買い物に行った時、「これも良いかな?」と言って、ケーブルを見繕い、購入した。私は、半信半疑どころではなく、ほとんどと言って良いほど期待していなかった。テレビは壊れているのかも知れない。だったら、そんな部品を買うだけ無駄ではないか?
しかし、家に帰ってそれを取りつけると、テレビは見事に花開いた。つまり、綺麗に映像を映し出した。どのチャンネルも映った。音量もくるくる式で調整可能だ。

「やったあ、我が家にテレビが来たね!」私たちは拍手した。私はようやく喜べた。テレビは買わない、という約束は、守られているのだ。もらってきたんだから。そしてそのテレビは、立派にその機能を果している。捨てられるはずだったのが、ほんの少し手を加えるだけで。
そして私は、そのテレビを、「食パンテレビ」と名付けた。その後、食パンテレビは、普段は押入れにしまわれ、週末だけ登場することになった。6インチの世界は、かえって厳かで、何かしながら見るということには向いていなかったからだ。

食パンテレビを喜べる、その感性を持っていて良かったと、ふと思う。
あれば感謝して、無ければ無いでやっていく、私たちのささやかな生活の象徴のようなそのテレビを。
生活そのものを、誇りに思える、感性が、与えられて良かったと思う。
お金はあまり無いけれど、お互いを思いやることを大切にしている、私たちの暮らしを。

そして今、おかしいことをおかしいと思う、自分の感性を、大事にしたいと思う。
たとえ、私には、なんにもできなくても。
6インチの画面を厳かに見つめながら、祈っている、2003年の12月。

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