Archive for the ‘ヒジャーブについて’ Category

1日目 

 休学後でも、学期初めでもないし、周りからすると何でもない日。ただ、私にとっては、二つの教育実習の二つ目を終え、大学に復帰する初日ということはあった。けれども、友達も、先生もみんな、一ヶ月前に私がヒジャーブをしていたか、していなかったかくらいは、憶えているだろう。やっぱり、明日にしようかな。来年からにしようかな。そんなふうにウジウジもしてみた。でも、なぜかは分からないけれど、今、やってみたい。そう思って、いそいそとヒジャーブを着け、外に出た。

 復帰後、初の講義は理科教育法。先生は、教室に入ってくるなり、さっさと講義を始めた。まるで落語のような、立て板に水の話術だった。授業を「受ける」ことに、まだ戻れていなかった私は、頭をついて行かせることだけに一生懸命だった。
 となりに座った友だちは、一番の親友で、私がムスリムということも勿論知っている。ヒジャーブ姿も見たことがある。この人なら分かってくれる、と思っていたとおりの反応だった。
 他の友だちは、まるでヒジャーブを透視して見ているのではないかと思うような反応だった。つまり完全なヒジャーブの無視だった。しかし、私が後ろを向いていても、遠くにいても、スパッと私を判別していたので、本当にこれは、透視なんじゃないかと一瞬思ったこともあった。

2日目

 2日目は1日目よりも緊張した。今日は教務課へ行く用事がある。そして、ゼミがある。
尊敬する、担当教官の教授に、何か言われるかも知れない。さらに、昨日は実習前に講義が無く、初対面の先生ばかりだったが、これからは全て少なくとも一度は受けたことのある講義ばかり。私は講義を、かなり前の方で受ける習慣があったので(はっきり言うと、受講者の全ての中で最前列の席に座ることがほとんどだ)、何か言われるかも知れないという不安が大きかった。
 
 しかし、結果として何事も無かった。教授には「ラマダーンだから?」と言われたくらいだし、3限の先生にも、後で休んだ分のプリントをもらいに行ったとき、「ちょっと聞いていい?それはファッション?それとも何か宗教上の理由?」と尋ねられたくらいだった。ちょうどそのとき、その先生はゼミ生の方々と、宗教の話をされていたらしく、私も加わって少し話をした。楽しかった。
 図書館で、なんと、もう一人ヒジャーブをした人に出会った。留学生の方だった。お互い大感激だった。そして、ある先生から、先生の講義の時間を使って、「みんなの前で話をしてみますか」と言っていただいた。とてもかる~い調子で言われたので、かるく「はい」とお答えしたが、後から考えると、私にしては途方も無いことだったと思う。

3日目
 
 休みをはさんで3日目、「三日坊主」の言葉もあるが、今回の場合はもうすっかり慣れた感じになった。4限の先生はどうだろうか、と少し心配したが、何のことはない、一番前に座っていることには変わりないと思って頂けたのか、よく質問などを受けたぐらいだった。この講義は、だんだんみんな後ろに下がっていき、私と数人の人が取り残された感じで、先生の視線を一手に引き受けた感じがした。
 とにかく、私の意識は、ふつうの大学生、受講生へと落ちついた。ヒジャーブも着けられ、大学でもふつうに過ごすことができ、本当に幸せだと思った。

そして2004年の年が明けた。
 1月20日の3限、4限、とうとう発表の日が来た。時間としては30分くらい。私の作成した原稿をもとに、先生がかっこいいレジメを作ってくださった。
 結果的に、私としてはかなりうまく行ったと思う。受講生の方がこちらをじっと見てくださっているのが壇上からでもはっきり見えて、とても話しやすかった。言いたいことをちゃんと発表できたと思う。
感想にも、非常に多種多様な意見を書いてもらった。今でも大切に持っている。
 このような機会を与えてくださった先生に、聞いてくださった皆さんに、深く感謝している。

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今年もラマダーンが終わった。「学校の行事との両立で、かなり大変なのでは」という予想をしていたが、その通りだった。学校の行事と言うのは、教育実習のことだ。今年の教育実習は二つあって、一つ目の小学校での実習は、すでに終了していた。二つ目は、養護学校での実習だ。私は障害児教育が専門なので、後者が正念場とも言える。それが今回、ラマダーンに重なったのだった。
 終わってみれば、非常に恵みの多い期間であったと思う。養護学校で過ごした四週間は、本当に楽しかったし、有意義だった。先生方に、そして生徒のみんなに、夫に、いろいろな面で支えてもらった、あれやこれやの思い出がいっぱいだ。また、この道が自分に合っている、好きだという確信と、時間的、肉体的、精神的にも厳しい条件の中、曲がりなりにも「やり遂げた」のだという自信を与えてもらった。

 しかし、何よりも一番驚いたことには、二度の教育実習を終えるにつれ、なんとなんと、ヒジャーブについて、今まであれほど人目が気になっていたのに、その気持ちが消えて無くなってしまったということだ。そして、大学にヒジャーブを着けて行きはじめた。全く、「あれえっ?」ってなもんだった。自分でも自分のことがさっぱり分からない。

 何となくきっかけらしきことは考えられる。
 実習が終わった直後、あるイスラームの勉強会で、タラ-ウィ-フに参加した。その間、ドゥアをする時など、いろいろと思うことがあった。六年前、高校一年生でムスリムになった時のことから、途中で悩んだこと、挫折したと思って、どうにもならなくなり、サラートマットの上で思いっきり泣きながらアッラーにお話ししたこと、いろいろな人に出会い、助けてもらってきたこと、教育の道を志そうと思ったことなど、数々の思い出が甦って来た。そして、実習中からずっと、強く思ってきた疑問が、また心の中をグルグルまわり始めた。
 「アッラー、どうして私は、イスラームの道と、障害児教育の道と、どっちか片方だけだったらきっと楽なのに、どっちも譲れないと思ってしまうのでしょうか?なんでこんなにしんどい思いをしなければいけないのでしょうか?私は一生だめなムスリムなんでしょうか?」

 その日のタラ-ウィ-フは、イマームさんが、クルアーン第2番目の章、雌牛章 アル・バカラを順に読誦して下さっていた。アラビア語は全然分からないのだが、なぜかとても心に響いて来た。このままずっと礼拝していたいと思った。もう何度目かも分からなくなったサジダの時、そっと「アッラーフ・アクバル」と言うと、急に涙が流れて止まらなくなった。

 そしてふと思った。イスラームと、障害児教育、どちらかではない、「どちらも」なのだと、それが私の道なのだと思った。その二つは、決して別のものではないのだと分かったのである。私自身が、そう捉えてしまっていただけだったのだ。

 もう一つ、その日の勉強会では、ムスリムの子どもたちも参加していた。小学校に行っている子どもさんが二人いた。お母さんのムスリマの方と、その子どもさん自身が、どうやってラマダーンを過ごしているのか、礼拝の前に、お話ししていただいた。

 そのお話も私にとってショックだった。先生や、周りの児童にわけを話して、給食の時間は別の場所でお祈りしていること。登山マラソンのような行事があって、二人の入っていたグループがそれぞれ全校一位と三位を取ったこと。楽しくおしゃべりしてくれる声を聞きながら、ガツンと一発やられた気がした。
 同じように、この日本中で、ちいさなちいさな努力をしている子どもたちが、どれだけいることだろう。そんな、子どもたちを支援していくのが、教師というもののはずなのに。自分の教育実習中を思いだした。確かに、実習生という身分の特殊事情はあったにせよ、他でもない「教師」を目指しているムスリムが、こんなことで良いのか!!!と、痛切に感じた。

 もう一度タラ-ウィ-フの場面に戻るが、そうやって泣いたりしている時に、ふと、「今度から、大学にヒジャーブして行こう」と思いついた。自分の中の、「気にする」気持ちが、霧のように消えてなくなってしまったことに気がついたのだ。そうなれば、ヒジャーブして行かない理由の方が、見つからない。
 後に、夫に「ねえ、私、学校にヒジャーブしていこうと思うんだけどね…」と打ち明けると、大喜びでアッラーを称えていた。

 月曜日が来て、いよいよ今日からだという朝、少しドキドキした。教育実習後、大学復帰の第一日目で、いろいろと感慨深くもあった。しかし、「ここへ来てジタバタしたってしゃあない」と思った。藍染め工房で染めてもらった、大のお気に入りの藍色のヒジャーブを着けて、一歩を踏み出した。

 結果は、想像もしなかったほど良いものだった。私自身の気持ちが、とても幸せで良い感じだし、教官の先生方に何かイヤな事を言われることもなかった。友だちも、大体、私がムスリムということを知っているので、「ラマダーンだから?」という反応があったくらいだった。正直、「もっと何か言ってくれよ」と思うくらい、みんな自然だった。電車の中や道でも、周囲は全く気にならなかった。

 二日目のキャンパスでは、思いがけなく、向こうからヒジャーブをした人が近づいて来た!留学生のムスリマの方だった。お互い感激して、すぐに友だちになった。その友だちは、今年10月、私の実習中に、この大学に来られたそうだ。故郷の国では周り全てがイスラーム的だったのが、日本に来て一変したので、最初はとても戸惑ったとのことだった。
 「アッラーはどこにでもいらっしゃると分かっている、でも、ここに来て、初めは、アッラーはどこ?と思って、とても辛かった。家族と離れたことよりも、イスラームと離れたような気がしたことが、一番苦しかった。」と話してくれた。 この大学には、もう一人、留学生で、男性のムスリムもいることが分かった。

 「もちろん、アッラーの助けで、また元気になれた。あとから、もう一人留学生がいることが分かって、それも嬉しかった。あなたに出会えたことも、私の助けになりました。ありがとう。」そのムスリマの友だちは、涙を流しながら言った。「全てアッラーのおかげですね。私こそありがとう。」と私は言った。

 大学でヒジャーブを着けるようになって、現在、4週間目に入った。一日のほとんどを過ごす学校とその行き帰りで、ずっとヒジャーブを着けていることは、何よりすごく幸せなことだ。だから毎日が本当に幸せだ。
 ただ、アルバイトに行く時だけ、まだ着けることができていない。これから、就職の問題もある。最大の難関だ。しかし、今までは一人でウジウジと悩んでいたが、これからは大学での周囲の人々に、オープンに相談することも可能だし、心強くなったと思う。
 この春から、ずっとヒジャーブや差別の問題について、相談に乗って下さっていた教官がいた。その方に今回のことをご報告すると、さっそく、講義の時間を少し頂いて、学生の前でヒジャーブについての話をさせてもらえることになった。
 では、今後もきっと紆余曲折あると思うが、一旦この後日談を、ある友だちのひとことで締めくくろうと思う。
 「もう、慣れた。もう、ほっちちゃんの、ヒジャーブ姿以外は考えられない。もう、やめたりしたらだめよ。」

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『魔女の宅急便』というアニメーション映画をご存知の方は多いと思う。その原作である、角野栄子さん作、『魔女の宅急便』『魔女の宅急便 その2 キキと新しい魔法』『魔女の宅急便 その3 キキともうひとりの魔女』をご存知だろうか。最近、最初の二冊は、新たに文庫化された。原作と比べてみると、映画は、原作そのままという訳ではなく、いろいろなエピソードから抜粋したり、少し変えたりしてまとめられている。時間的には、映画の方は「仕事が軌道に乗ったところ」までだが、原作ではそれぞれおよそ一年間のできごとが描かれている。そして、それぞれのできごとが、もっと詳しいのだ。
 私は、このお話の、映画の方自体が、そもそも好きだった。しかし、原作の方を読んで、全然違う感じを受けて、全然違う意味で気に入った。

 魔女のキキは、十三歳になると、満月の夜に「ひとり立ち」する。魔女のお母さんの子どもは、魔女として生きるか、ふつうの人間として生きるか、十歳を過ぎた頃、自分で選べるのだが、キキは、ほうきで空を飛ぶのが好きで、魔女になることを選ぶ。
 相棒の黒猫のジジと、意気揚揚と出発したのはよいものの、はじめての街で「魔女はこわいことをする」「何か悪いことをたくらんでいないか」「ごかってに」などという街の人の言葉をきいているうちに、すっかりしょげてしまう。パン屋のおかみさんに出会って、何とか住む場所は見つかるが、そこから外に出ていけなくなるのだ。

 この「しょげる」→「(精神的に)外に出ていけなくなる」というパターンが、このシリーズでは何回となく繰り返される。もう少し正確に言うと、「しょげる」→「出ていけなくなる」→「誰かの助け」→「1歩踏み出す」→「何かが起こる」→「元気になる」→「何かが起こる」→「しょげる」の繰り返しである。読んでいると、楽しいできごとがあって、調子が良いなあと思ったら、急にがっくり来るようなことが起こる。そんな過程の中で、キキは少しずついろいろなことを学んでいく。
 部屋に閉じこもっている時、キキは、街の様子や人々にわけもなくおびえてしまっている。このまま人間のふりをして暮らすこともできる、ひとり立ちをやめて家に帰ることもできる。そんなことまで、キキは考える。人が何て言うかなんて、気にして生きるのはいやだと、出発前には言っていたのに。
 そんなピンチを、キキは、「自分にできることを見つける」ことで解決していく。ほうきで飛ぶことが大好きなキキは、その飛ぶということを使って、ささやかなお届けもの屋さんをしようと思いつく。それが『魔女の宅急便』だ。

 『魔女の宅急便』は、最初、「魔女」がやっているということで、良くないうわさが立ち、あまりお客さんが来ない。しかし、少しずつ変化がある。例えばこんな話がある。キキは、母さんから譲りうけたほうきで、「黒い矢のようにすっ飛んで」いた。ある日ひょんなことでほうきが壊れて、あわてて作りなおしたほうきでは、後ろの方が上がってしまって、変な格好でしか飛べない。けれども、暴れ馬のようなほうきと格闘しているキキに、前よりもたくさんの人が声をかけてくれるようになる。街の人たちは、キキが飛ぶのがへたになったら、むしろ「なんだか安心した」ようなのだ。

 その後も、いろいろな人の、「魔女は○○だ」というような先入観、固定観念に染まったような言葉に、何度もキキはしょげてしまう。せっかく軌道に乗ってきた魔女の宅急便の仕事についてまで、自信を失うこともある。第2作目では、キキは飛べなくなるというピンチを経験する。そして第2作目のラストで、母さんの「薬作り」を受け継いでするようになる。

 この話の中で特に、私が一番ハッと感じたところは、実は第3作目のラストだ。細かい話を抜きにすると、3作目の最後の方でキキは、とにかく何もかもがイヤになって、自分自身もイヤになって、「消えてしまいたい」と思う。そして暗い夜に、ほうきに乗って、猛スピードで高い空へ昇っていく。そこから街を見下ろした時、ここからいなくなって、どこへ行くというのか、と自問自答する。本当にこれで良いのか。
 その瞬間に、キキはあることに気がつく。自分の本当の気持ちだ。
 そして、今度はほうきが勝手に、どんどん急降下していく。
 キキは、その街に戻る。

 私はこの話を読んで、何度も気持ちのアップダウンを繰り返すキキに、自分のことがすごく重なった。ヒジャーブのことを特に、人から何か言われると、ウジウジ、モジモジ、自分でも、どうしてこうなんだろうと思うのに、やっぱりまたオドオドしてしまう。しかし、これもまた、アッラーのお恵みではないかと、最近考えるようになった。自分が、人に何か言われて、傷ついた経験をしなければ、こんなにも差別についてや、自信についてなど、考えたり調べたりはしなかったと思うのだ。ヒジャーブのことを何だかんだ言われたって、傷つかない強い人や、それをきっかけにダアワができる立派な人だって、きっとたくさんいるのだろう。その人たちはその人たちで、きっと立派な役割を果たされているのだと思う。でも、アッラーは、今のウジウジした私にでも、私のこの特性だからこそ、できる役割を、考えて下さっているのではないだろうか。学びや成長の機会をも、下さっているのはないか。

 ヒジャーブについていろいろ考えてきたことに、今のところ結論は出ない。どうしたら良いのか自分でもまだ分からない
 それでも、私は、障害児教育の教師という職業に就くことを、今、本気で目指している。もし、教師になれたら、ムスリムとして自然な暮らしをすることについて、かなりの苦戦をすることが予想される。しかし私は、教師は、ムスリムとして、誇って良い職業だと思うし、自分はそれをすべきだと思うし、それをしたいのだ。
 ヒジャーブはきっと、最大の難問になるだろう。私は今もまだウジウジしている。けれどもいつか、道は開けると思っている。

参考文献
『魔女の宅急便』角野栄子 作  林明子 絵  
『魔女の宅急便 その2 キキと新しい魔法』角野栄子 作  広野多珂子 絵
『魔女の宅急便 その3 キキともうひとりの魔女』角野栄子 作 佐竹美保 絵 (3冊いずれも福音館書店)

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2003年

私はムスリムであり、ヒジャーブをしている。その理由は、自分では「自分の身体や女性としての自分の身体を守り、安全な状態で安心して生活するため」だと思っている。しかし、いつでも思うとおりにそれが実行できるかというと、そうでないこともたくさんある。

 十六歳の時にムスリムになって、まだ間も無い頃、それまで友人の住むA県で過ごしていた頃は何とも無かったのに、B県に帰る道々で人々の視線に気づき、またもうすぐ親に会うということで、さんざん迷った挙句ヒジャーブを取った。その時の悔しい気持ちは、ムスリムの男性と結婚し精神的には安定した日々を送っている今でも、絶対に忘れることは出来ない。親に会ってから帰宅するまでの三時間以上の道のりを、ずっと涙を流しつづけながら帰った。ヒジャーブに関する一番辛い思い出である。現在も、大学に通う時や、アルバイトで学習教室に行く時はヒジャーブを付けることが出来ない。試しにやってみれば、案外すんなり行くかもしれない。しかしそれができない。

 なぜだろう、といつも思っていた。自分を守るためのはずのヒジャーブをすることにより、なぜ傷つかなければならないのか。なぜ私は自らヒジャーブを取ってしまうのか。
 しかし最近、障害児教育の勉強の中で、「スティグマ」の理論と「バリア」を知って、この疑問を解決することができた。

 スティグマとは、アーヴィング・ゴフマンによると「突出しているため人の注意を引き、見つけられれば誰もが顔をそむけ、しかも他の属性などもはや眼中に入らなくなる一つの特性」である。スティグマのある人は「まったき人間ではなく」「劣っていてしかも危険」であるかのようにみなされ、それゆえ世間の態度は決まっていて、「いろいろの差別をし、事実上彼らのライフ・チャンスを狭めている」という。
(『社会受容[障害受容の本質]』より)

 また、最近「バリアフリー」ということが盛んに言われるようになったが、そもそもそこで言われている「バリア」とは何かということが、きっちりと説明されている本に出会った。『障害をもつ人たちのエンパワーメント』という本の中で、障害者にとっての4つのバリアが言われている。つまり、物理的なバリア、制度的なバリア、文化・情報のバリア、そして意識上のバリア(心のバリア)である。この本の著者は「負のスティグマという心のバリアで作られた、負のイメージ・負の障害・障害者像を押しつけられることによって、障害者が無力化させられているのではないか」(筆者要約)と述べている。
 
 同じことが、私の感じ方としては、ヒジャーブについて言えるのではないかと思う。つまり、私にとってはヒジャーブが、「身体を守る」意味もあったが、「心のバリアで作られた負のイメージ、負のスティグマ」という意味もあったのではないか。
 「テロ!!!」「女性が抑圧されている!!!」などという「負のイメージ」で自分を見られたくない、「日本人のくせに何故?!」「不自然!!!」と説明を迫られたくないという気持ちが、自分からスティグマを避ける=ヒジャーブを取る、という行動に向かわせたのではないか。また実際に私のヒジャーブに向けられる、人々の視線や言葉の一部には、ヒジャーブをスティグマとして捉え、忌避や排除の気配のあるものがあったし、さらに実際に、私が精神的に傷ついたことがあるのも事実だ。「仕事中にはできない」などという一部社会的バリアらしき部分もあるが、それとて根底にはスティグマによるものがあってのことだろう。また、改宗ムスリムである自分の中にも、奥深いところで差別的な意識が残っていて、内側からも苦しむことがあった。

 ではそこからどういうふうに出発すればいいかということだが、まず次の文章を挙げる。『障害学の主張』の第6章の著者、ニキリンコさんは、「障害のある本人が自分の障害について説明を求める欲求は理解を得にくい」と述べている。その陰には「『障害者』というレッテルは誰にとっても、常にマイナスのものであるはず」という前提があるのだとして、「実際には社会的に『障害者』としての承認を求めることは、決して『障害者』というレッテルに付随する蔑視を自ら求めることでもなければ肯定することでもない」また「事実のレベルでは障害者としての承認を求めつつ、『障害』全体に対するスティグマは拒絶するという姿勢もあるはずで、身に合わない『健常者』というレッテルに苦しみ続けるか、差別もコミで障害者として認めてもらうかという二者択一に追いこまれる必要はなかろう」という。
 同じように考えてみると、私にとって以前は「ヒジャーブを被ること」=マイナスイメージで見られる」という図式が成り立っていたが、だからといって「ヒジャーブを被る」=「マイナスイメージを認める」では、決して無いのだった。まずここから出発すれば良いと思う。

 自分自身にとって、「ヒジャーブを被ること」=「マイナスイメージで見られること」という図式が成り立ってしまっている状態から、どう出発すればよいか。それにはまず、「ヒジャーブを被る」=「マイナスイメージを認める」ではないことを、しっかりと認識しなおすことだと書いた。実際のところ、電車に乗っていると普段より倍以上の視線を感じる。よく話しかけられる。「それはファッションですか、それとも宗教上の理由ですか。」ほどだったら歓迎するくらいだが、「他の宗教とどこが違うと思ってるんですか?」とかいきなり言われても困る。「ほら見て、あれ、イスラム人?!」なんてキャピキャピした学生さんたちに言われたりすると、かなり来るものがある。

ダアワのきっかけになる、興味をもたれること自体有意義、という感覚には、本当に正直なところ、なれない。どうしてだろう、自分は人間が小さいのだろうか。確かに小さいと思う。時が経てば変わるのかも知れないが、今は、とてもとても、そんな余裕は無い。ならば、どんなふうに変わっていけばよいだろうか。

 これに関連して、最近興味をもっていることを書きたいと思う。一つ目は、「セルフエスティーム」である。セルフエスティームは、日本語では「自尊感情」と言ったり、「自己肯定感」と訳されたりもしている。自分に対する誇りとか、自分の価値を認められる、つまり簡単に言えば「自信」ということだ。
 『人権教育をひらく 同和教育への招待』という本の第四章では、こんなふうに説明されている。「概念の内容をはっきりさせるために、セルフエスティームがそこなわれた問題状況を浮かべてみよう。セルフエスティームに限らず、人間の心にかかわる概念は、多くの場合、何らかの問題状況を出発点として形成されている。だから、その概念の意味するところを考えるには、その概念が発生する出発点となった問題状況に立ち戻ればよい。」

 「まわりから見ると、うらやましいような状態の人がいたとする。仕事も家庭も友人関係も順調に見える。能力があふれ、個性豊かだとまわりの多くの人に評価されている。ところが本人自身は現状に対して安心感を抱いておらず、何かで失敗するのではないかとか、何かの事故にみまわれないかとか、いつも不安をかかえている。自己評価が低く、こんなにうまくいくはずがないと、どこかで運命におびえているところがある。(略)セルフエスティームが問題になる典型的な状況はこれである。つまり、客観的状況からいえば自信にあふれていてよいはずなのに、本人は何かしらそれを否定的にとらえているという状況である。」

 「あるいは、まわりから見ていると力があると見えるのに、何かに取り組むといつも同じような人間関係の問題でつまずいてしまう。(略)その人の人生にはいつも同じようなシナリオが待っているようにさえ感じられてしまう。同じような失敗がくりかえされ」「自己評価が低くなってしまう。」
 続けて、差別とセルフエスティームの関係についても延べられている。「被差別の立場にあることとセルフエスティームが深くかかわっていることは、容易に想像がつくであろう。何らかの被差別体験がもとになって、自分が社会から拒否されていると感じるようになる。」 「もちろん、被差別状況にあるからといって、みながみなセルフエスティームが低くなるわけではない。むしろ、被差別状況をバネとして、努力を重ねて成功を勝ち取り、自信と誇りをわがものとした人もいる。」
 長々と引用してしまった。ところで、このようなことは、心理学でも重なって取り上げられていることだと思う。ここでいうセルフエスティームが低くなる一因に、心理学で言う「トラウマ」がある。また、同じような失敗経験が繰り返され、自分なんか何をやってもうまくいかないんだ、と思いこんでしまい、やる気が起きない「学習性無力感」と言ったりする。

ひとまず二つ目にいきたいと思う。二つ目は、「エンパワメント」である。この辞書的な意味は、「①力や権力を合法的に用いる行為、何かを可能にする行為 ②力を得た状態、可能になった状態」である。今引用した第四章の続きに、エンパワメントの説明もある。「さまざまな権力基盤の点で弱い立場にあり、セルフエスティームをもちにくくされている人々が、自らの立場を自覚し、潜在的な自己の力や個性に目覚めて自己表現しはじめ、社会のあり方を変革するべく立ち上がっていく力をのばす過程とそのための働きかけをさしている。」
前述した『障害をもつ人たちのエンパワーメント』の本の中では、「①力をつけていく過程 ②力をつけた状態 に加え、③無力な状態にされた人たちの潜在的可能性、人間としての尊厳を引出し、取り戻すこと」とある。無力な状態とは、スティグマやバリアーによって、型にはめられたり阻害されたり、抑圧されたりして、本来の力が発揮できていない状態ということだ。

参考文献
・障害受容[意味論からの問い] 大田仁史監修 南雲直二著 荘道社
・社会受容[障害受容の本質]  南雲直二著 荘道社
・障害をもつ人たちのエンパワーメント  伊藤智佳子著 一橋出版
・障害学の主張  石川准 倉本智明 編著  明石書店
・「人権教育をひらく 同和教育への招待」中野陸夫・池田寛・中尾健次・森 実   開放出版社
第四章 102~105、111
・「障害をもつ人たちのエンパワーメント」伊藤智佳子 著 一橋出版
・大阪教育大学「視覚障害教育総論」講義資料

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*
ひっぽに行ってから、ほぼ一年が経った。SOYAには、新しい仲間が増えたそうだ。私がお邪魔したすぐ前に、お客さんに来ていたご家族が、ひっぽに入ることになったのだ。MさんとSさんの家族にも、もう一人メンバーが増えた。娘さんが生まれたからだ。

藍染めのヒジャーブは、私の大のお気に入りの一枚になった。つけていると、「これはね、ひっぽの藍染め工房でな、一から作ってもらったやつやねんで!」と誰かに話したくなって仕方がなかった。見ていると、ひっぽの思い出が蘇ってくるし、他の人が見てくれた時に、このヒジャーブを通して少しでも、ひっぽのことに興味を持ってくれたらいいなと思った。イスラミックな服装のためのものではあるが、「和」の雰囲気を合わせもっているのも、気に入っているところだった。
あいかわらず、大学とアルバイトには着けて行く勇気は無いが、少しずつ、ヒジャーブ姿で居れる場所が増えてはきていた。
ヒジャーブをつけられるようになった理由には、ひところ感じていたショックがだんだん薄まってきたことがある。そして気持ちの整理がついてきて、「ヒジャーブをじろじろ見られた」ことと、「ムスリムとしての生き方を否定された」ことは違うということも分かってきた。たとえ、人によっては同じ意味だったとしても、これは私の生き方だから、人のことを気にすることはないのだと思うようになった。あの高校の頃は、親のことで大変だったし、心が疲れて傷つきやすくなっていたのだろう。そんな風に振り返ることができる余裕も、少しずつ出てきた。
そんな折、高校時代の親友、Hから、結婚式に招待された。結婚式と披露宴の間の受けつけも頼まれた。
初めてのことで、まず何を着て行くかで迷いに迷い、次にヒジャーブをするかどうかでジタバタジタバタした。Hにはムスリムであることを言っていたし、他の友だちの何人かも知っているはずだった。でも、実際に私がヒジャーブをしているところは、見せたことが無かったのだ。余裕が出てきたはずなのに、急に自信が無くなってきた。
「結婚式にヒジャーブして行ったら、『雰囲気が壊れるからやめてください』って言われたらどうしよう。」私はしょっちさんに相談した。「そんなことはないでしょ。」しょっちさんが軽く言った。私はため息をついて言った。
「ねえ、ムスリムもさあ、『もちつもたれつ』っての、ないんかなあ。」
「はあ?何それ?」
「角野栄子さんのな、『魔女の宅急便』に出てくるねん。魔女のキキがな、一人立ちしてな、新しい町に来んねんな、そんで最初は、町の人がな、キキが魔女やからって、何か悪いこと企んでへんかとか、子どもにさあ、こわいことするのよ、とか言ったりな、全然冷たい感じやねん。」
「ほう。」しょっちさんが言った。
「キキもな、どうして魔女は悪いことするって決めちゃうのかってめっちゃ落ちこむねやん。出発する前は、ひとになんて言われるかなんて、いつも気にして生きるのはいやって言ってたのにな。なんかそれってうちと似てるやん。ほんますごい落ちこんでな、部屋に閉じこもってな、『人間のふりをして暮らすこともできる』なんてことまで考えるねん。でもな、キキがな、宅急便の仕事始めてな、だんだん町の人たちとな、『もちつもたれつ』でうまくやっていけるようになんねん。キキのお母さんが言ってたことやねん、それ。『おたがいにできることは助け合う』って気持ちやねんて。だからさあ、日本のムスリムもさあ、この日本でさあ、なんかこう、もちつもたれつって感じになれたらええのにな。だってな、『お酒呑みません』とか言ったらさあ、『ここは日本だ。』って言われたりするやん。」
「『ムスリム』がどうのこうのっていうのは、違うと思うよ。」
「じゃあ何?」
「簡単だよ!キキはどうして、町の人たちとうまくやっていけるようになったんだよ?どうして宅急便の仕事をしようと思った?」
「それは…キキのほうきが壊れて、でも一生懸命飛んでるのを、町の人が見て…そうやな、キキの一番得意なのはほうきで飛ぶことやったから、それ使って何か人の役に立つことしようと思ってんな。」
「そうだろ?」
「ほんまや。ほんなんやったら、うちも一番得意なこと一生懸命やればいいってそれだけなんかな。いま障害児教育の勉強は一生懸命やってるけど、それでええんかな。」
「そういうこと。キキは、『魔女の私を認めてくれ!』なんて言わなかったろ。」
「まあ、ねえ。」私が言った。

最終的に、結婚式の服については、大学の友だちが相談に乗ってくれて、黒いシルクのロングドレスを貸してくれた。肩が出るので黄緑色の上着を着ることにした。ヒジャーブは、ギリギリまで悩んだ。
式は横浜であったので、前日は東京の姉の家に泊まった。姉は、トルコで買ったという、たくさんのヒジャーブを出してきてくれた。ドレスと上着に合うのはどれか、取っかえひっかえ試してみた。もっと新しい着け方はないか、どのブローチをつけようか、いっそ二枚重ねなんてどうだろうか。大騒ぎして結局、「とりあえず寝よう!」という時間になった。
翌日、一枚の、黄緑色のヒジャーブに決めた。ブローチはやめた。このヒジャーブを、きっちりいい形にセットすれば、きっとそれだけでおしゃれになるだろう。そう思った。式場で着替えられるとのことで、普段着を着て、藍染めのヒジャーブをつけて姉の家を出発した。
乗換えが多くて時間がかかり、最後はタクシーに乗った。式場に着いてみると、高校の友だちはまだ一人も来ていなかった。更衣室でドレスに着替え、黄緑色のヒジャーブをつけた。いつになく、バッチリ形が決まったように見えた。黒い手提げバッグに、少しヒールのついた黒いサンダルで、洋風の廊下を進んだら、自分の格好が周りとすごく合っていて、何となく、いい雰囲気だと思った。
「お客さま!」呼びとめられて振り向くと、「背中、背中!」と身振りで示された。慌ててファスナーを閉め直した。ホックをとめるのが大変で、それに気を取られてすっかり忘れてしまったのだった。早く教えてもらえて良かった、と思った。気を取り直して、まずは結婚式が行なわれるチャペルに向かった。まだ友だちは誰もいなかった。ひょっとして場所を間違えたのかと焦り出した頃、「新婦の入場」になった。
床にまで届く、すごくエレガントなベールをかぶった、かわいい花嫁さんの姿が見えた。やっぱり、Hだった。「よかったあ、合ってたあ。」とほっとしつつ、真っ白でかわいいウェディングドレスを眺めて、すてきだなあと思った。Hは、一歩ずつ進んで来て、私のほうを見てニコーッと笑った。いつもと同じ、Hだと思うと、何だかすごく安心した。
指輪交換も過ぎ、すてきなキスも拝見させてもらって、もうそろそろお開きというところで、高校の友達がドヤドヤと入ってきた。私に向かって律儀に、手で「ごめん」と言いながら、みんなあわただしく横の席に並んだ。
結婚式が終わり、ブーケキャッチのイベントが始まるまでの間、にぎやかに言い訳が飛び交った。「ちゃうねん、私なあ…」「一本だけ、遅かったんよねえ…」「アメオンナがこんなに揃うと、やっぱ雨降ったなあ。Aはさらに遅れてるし…」そこへ、待機していたHが割り込んだ。「ほんまにい!さっき入ってきた時、パッと見てほっちだけやったから、ああまた遅刻やわと思ってむっちゃおもろかってんから。」
披露宴の受けつけは、緊張したけれど、Hの友だちの社会人の人がいっしょで、いろいろ教えてもらったから、何とか務まった。途中で、遅刻組第二班のAちゃんがやってきた。「ほっちちゃん?だよね?」と言われて、「うん、そうだよ?」と何でそう驚かれたか不思議に思った。「そうやねん、うち、受けつけ係やらしてもらってんねん。」と、誇り高く言った後で、ヒジャーブをしていることを、自分がすっかり忘れていると気づいた。
私が、ウェディングドレスのHを見て、それでもHはHだなあと思ったように、みんなも、ヒジャーブはしていても私は私と見えたかなあ、とその時思った。「Aちゃん、みんなが、はよ来て晴れにしてって言ってたで。」と言うと、「まかしといて。」と唯一のハレオンナのAちゃんが応えた。
お預かりものを、Hのご両親にお渡しして、パーティーの席に着いた。私のメニューは、「特別メニュー」という付箋がついていた。先に席に着いていた友だちとしゃっべっているうちに、パーティーが始まった。
始めに、「このパーティーは、堅苦しい形ではなく、参加者のみなさんに楽しんでもらえるものにしたい」という、新郎新婦のお願いが発表された。その通りに、二人と気軽に会話できる場面もたくさん設定され、本当に和やかで楽しいパーティーになった。
Hは、私のテーブルに来るたびに、「大丈夫?食べられる?」と聞いた。Hは以前に電話で、私が何を食べられて何を食べられないのか、詳しく聞いてくれていた。「全部食べさせてもらってるよ、うちこんなにおいしいお料理は初めてやで。ありがとうなあ、ほんま。」と私も心から返した。
Aちゃんの力が効いたのか、テラスでデザートバイキングをいただく頃には、すっかり晴れた。新郎さんも「ほんと晴れたね、ありがとうございます。」と笑っていた。彼は年上の社会人、Hは看護師さんで、今は保健師学校に通っている。しかも、神奈川出身と大阪出身だった。しょっちさんと私の状況に似ていた。前に一度、Hから、彼との生活がうまくいくかどうか、相談を受けたことがあったから、幸せそうな二人を見ていると、こっちも満たされた気分になった。
「うち、ほっちがどんだけすごいか、分かったわ。」少し前に、Hが彼といっしょに住み始めた時、電話で言われたことがある。「学校行って、家事もしてなあ。自分が同じになってみて、はじめて分かったわ。しかもほっち、アルバイトもしてるやろ?」「うん、そうやけど、大丈夫やで。」ちょっと嬉しくなって言ったものだ。そんなことを思い出すと、じいんと来た。七月生まれのHは、誕生花でもあるひまわりに囲まれて、いつもと同じように笑っていた。
Hが、思いっきり大阪弁で、ご両親への感謝の手紙を読んだ。それから、花婿さんが最後の挨拶をした。楽しい雰囲気のまま、パーティーはお開きになった。
私たちは、少し後で、Hと話す時間をもらえることになった。「ちょう待ってて、着替えてくるわ。」私が言った。みんなはそれぞれ泊まっていたところから直接来ていたので、そのまま帰るということだった。更衣室で普段着に着替えて、藍染めのヒジャーブをつけた。
みんなのところに戻ると、「それも良いねえ。」と言われた。「色がいいね。」美術大に行っているTさんが言った。「そうでしょ?これなあ、ほんまの藍染めやねん。藍染め工房の人に染めてもらってん。だから一個しかないもんやねんで。」私は嬉しくて、勢いこんで言った。「ほんまあ、すごいなあ。」「っていうか、全体のコーディネートも合ってんなあ。」私は、パリのファッションショーで賞を取るより、もっと嬉しい気持ちになった。
「みんな大阪やのに、横浜で大集合っていうのもおもろいもんやね。」一時間ほど後に、みんなでお茶を飲んだ後、私が言った。「まあね、こういうのもいいね。」「ほっちちゃんは、もう帰るん?」「うん、レポート貯まってるしな。」「うちもうちも。」Aちゃんが言った。「お互いがんばろな。」「また大阪でお会いしましょう。」「花火行こなあ。」と言い合って、私は駅へ向かった。

「そんなこと言われても、今が十分変わってるから、これ以上何とも思わんよ。」
高校の時、Hに自分がムスリムであることを打ち明けたら、こんな言葉が返ってきた。Hや他の友だちのように、私のことをもともとよく知っているから、ムスリムであることもおまけみたいに自然に受けとめてくれる人もいる。どうして、なんでと質問攻めにする人もいる。質問攻めにはするけれど、話をきちんと聞いてくれ、「なるほどね。」といってくれる人もいる。食べ物のことばかり気になる人もいる。ヒジャーブのことを、「きれいですね。」「おしゃれだね。」と言ってくれる人もいれば、平気で指を差し、こそこそ話したりする人もいる。まあ、いろいろな人がいるけれど、いちいちビクビクしないで、分かってくれる人が二人でも一人でもいたら良いや、というぐらいに思っておけば良い。そう思うようになった。

私は今、本気で教師を目指し、一生懸命勉強したり、アルバイトをしたりしている。しょっちさんと暮らしているし、いろいろな友だちがいる。そして私はムスリムだ。そういうことを 全部合わせて、これが私の生き方だと思っている。大変なこともあるが、毎日楽しい。だからこれで良いと、自分で思っている。教師になれたとしても、あいかわらずヒジャーブをする望みが、完全には果されないかもしれない。でも、それが全てではないし、自分の生き方はこれだと
自分で決めてすることだから、前のように何か言われても、ひどくショックを受けることは、きっともう無いだろう。いつの日か、分かってもらえる日が来れば、それで良いと、今は思っている。いつの日か。

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*
翌日の午前中は、MさんとSさん、お二人とも作業で忙しくしていた。私は息子さんといっしょに過ごした。息子さんを抱っこして、家の裏手の道を歩いている時、良い香りがしてきた。「行ってみようか?」香りのする方へ歩いて行くと、そこに梅の木があった。熟した実が、地面にも落ちていた。「おっもしろいねえ。」と息子さんに言った。家の横に、宅急便のトラックが入ってきた。「今日は何もありません。」Mさんが言っていた。「ハイテク農業だ。」とSさんが笑って言った。

午後から、Mさんたちのお友だちに会いに行って、ついでに温泉に行こう、ということになった。「久しぶりの休みだ、まあいいかな。」とSさんが、農作業の残りを検討してみた後で言った。
お一人目は、「藍染め工房&アートギャラリー 野風(やふう)」をやっていらっしゃるYさんだった。Yさんは、髪もひげももじゃもじゃで、手と爪はまっ紫だった。
工房に入らせてもらうと、藍の香りが充満していた。上からは、藍染めの作品がたくさん吊るされていた。床には、でかい丸い水槽みたいなものがいくつかあって、中に藍染め液が淵近くまで入っていた。絞られた布がいくつか、途中まで浸されていた。「これって、家庭でもできるものなんですか?」と私が聞くと、「藍の世話って、牛一頭飼うぐらいのことだからねえ。」とYさんは答えた。
「ほら、これ、藍の花って言うんだよ。」見ると、藍染め液の上に、藤色のもこもこしたものが浮いていた。じゃがいもをゆでた時に出てくる灰汁みたいだった。実際藍の花は藍の灰汁であるように思えた。
「すぐだから、よく見てて。」と言って、Yさんが薄い布を液の中に浸し、すぐ出した。見ると、最初かすかに緑色だったのが、ふわあっと薄い青色に変わった。「表面は酸化してるけどね、この中では液は、色がついてないんだよ。」とYさんが言った。「インディゴホワイトってやつですね。」私が言った。「んっ?よく知っているじゃない、詳しいの?」「いえいえ、学校の化学の講義で教えてもらっただけです。」と言いながら私は、その講義のことを思い出した。色素「インディゴ」の化学式が解明され、人工でも藍色が大量生産できるようになったけど、やはり本物とは違ってくるらしい。化学式と、目の前の藍の花とは、確かにすごく大きな隔たりがある気がした。
座らせてもらったところは、最初巨大なテーブルと思ったが、よく見ると碁盤のように縦横の線が入っている作業台だった。麦茶を振舞ってくださりながら、Yさんはするどく「イスラム教?」と聞いてきた。すごく興味を持たれたらしく、質問攻めにあった。私も負けじと藍染めのことを質問した。
ヒジャーブの話になった時、Sさんが、「良かったら、かなり遅いけど結婚祝に、プレゼントしようか?」と言った。「手作りだから、やっぱりすごく高価になっちゃうんだけど、記念にねえ。」私は「えっ、よろしいんですか?」と言いながらすごく嬉しかった。
「それってどのくらいの大きさなの?」Yさんが言った。私は上につけていたトルコの青いヒジャーブを外して、台の上に広げてみた。下に薄いのをもう一つ着けていたのだ。
「ああ、ガーゼじゃん。」ピッと触ってすぐ、Yさんが言った。「ええっ、ガーゼなんですか。」私が言った。「そうだよ、やわらかくて、夏にはいいね。」Yさんが言った。いつも使っていたけど、何にも知らなかったんだなあと思った。「全く同じ感じの布じゃなくてもいい?」Yさんが聞いた。「ええ、もちろんです。」私が言った。
「じゃ、これくらいの大きさで、これぐらい、薄い感じでね?模様はどうする?」そう言って、ヤマキさんが作品を一つ、持ってきた。「わ、すてき。」と私が言った。四角い布に、白い模様の部分が二本の太い流れのように入っていた。「でも、白い部分がもう少し少ない方が。」と私が言った。「じゃ、だいたいこんな感じで、模様少なめ、ということで。」「やったあ、よろしくお願いします。」と私が言った。
ギャラリーの方も見せてもらった。服やタペストリーや小物も、何から何まで完全に芸術品だった。本当に「びみょおおお」な色のグラデュエーションで、これを作り出すにはどれだけ、浸してずらし、ずらしては浸しをしたんだろうと思った。
お二人目は、陶芸をやっていらっしゃるOさんだった。山のわき道を登ったところに窯と、やはりギャラリーがあった。OさんはSOYAの大豆の豆殻を、火のために使って作品を作られたそうだった。それをSさんたちは見に来たのだった。
「これです、これ、豆殻を使わせてもらったの。」Oさんが、作品が置いてあるなかの一画を示した。そのお皿は、不思議に緑色がかって、やさしい色合いだった。「すみません、写真に撮らせてもらっていいですか?」私が聞いた。「もちろん。」私は写真に撮りながら、全くもって類は友を呼ぶとはこのことだと、ただただ感じ入った。
Sさんもミコさんも、YさんもOさんも、みんな、何かものすごい迫力が感じられた。そしてお味噌や、藍染めや器などの作品には、みんな力があった。それはなぜかと考えてみたら、共通する部分は、自分の生き方をしっかりもっていて、それを一生懸命がんばっていらっしゃることではないかなと思った。
私は、意地っ張りだが、自分の生き方に少し不安になることがあった。病気になった時、このまま大学を続けられるか不安だった。しょっちさんと結婚する前は、大学もあり、病気もありで、彼とやっていけるのか不安だった。結婚した後も、しょっちさんのお母さんに「こんな私で良いんでしょうか?」尋ねたことがある。しょっちさんのお母さんは、「ほっちさんはあの子と暮らしてどう?」と聞いた。私は「それは…楽しいです。」と答えた。「そう、良かった。あなたに、あの子と暮らして楽しいと言ってもらえるなら、親としてこんなに嬉しいことは無いわ。」そう言ってもらった時、やっと私は、私が今の私、今の生き方で良いかどうかなんて、自分が決めることだと気がついた。大事なのは自分がどう感じるか、思うかで、周りにはそれが自ずと伝わるものなのだと思った。それなのに私は、まず周りの目、外からの評価ばかり気にしていて、一人で不安になっていたのだ。
Sさんたちも、仕事は大変そうだったけれど、とてもイキイキしていて、楽しそうだった。自分がこれと思ったことに、ひたむきに向き合っていると思った。
三人目の方を、病院へお見舞いに行くというところで、私は時間切れになった。夜行バスに乗る前に、お土産も買うつもりだった。「温泉はまた今度でいいかな?」Mさんが言った。「はい、もちろんです、いろんなものを見せていただいて、もう胸がいっぱいです。」と私が言った。それは正直な気持ちだった。「じゃ、仙台まで送ろう。途中だから。」とSさんが言った。
「スカーフ、多分時間かかると思うけど、できたら送るから。」仙台駅に着くと、Sさんが言った。「気をつけてね。」Mさんが言った。「どうもいろいろとありがとうございました。」と言って、息子さんにも手を振ってから、荷物を持って歩きだした。

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藍染めのヒジャーブ

*
「ひっぽ」から小包が届いた。
開けてみると、「ほっちちゃん。だいぶ遅くなったけど、結婚祝いです。ハンカチはしょっちのです。」という短い手紙と、紙に包まれた薄い箱があった。箱のふたを開けると、薄い保護紙の下に、藍染めの布の作品が二つ、収まっていた。大きいほうをさっそく取りだし頭につけてみた。すぐに藍の香りがした。待ちきれずに、鏡のある方へとんで行って覗きこんだ。
それは、夜の闇のような色と、晩い夕方の空のような紺色が交じっていた。ところどころの白い模様は、ちょうど頭のてっぺんから右肩へ、花吹雪が散り落ちているかのようだった。確かに、ムスリム(イスラム教徒)の女性が頭につけて使うということを、意識して作られた一品に見えた。
「あの紫色の手をしたおじさん、うちのために染めてくれてんや。これこそほんまに世界で一つしかないヒジャーブやあ!」
お腹の底からじわあっと嬉しさがこみ上げてきた。しばらく鏡の中を見つめ続けた。
*
宮城県伊具郡丸森町筆甫(ひっぽ)に私が行ったのは、2002年の夏のことだ。「山の農場&みそ工房SOYA(そうや)」を見学するためだった。SOYAのご主人、Sさんに寄れば、「SOYA」というのは、英語で大豆のことを「soya beans」というところから来ているらしい。
Sさんと私の夫のしょっちさんは、二人が大学生だった時、海外の植林ボランティアの場で知り合いになったという。その時の記念写真が今でも残っている。
しょっちさんの話によると、Sさんはその後、味噌造りをするため、ひっぽに住むようになった。大豆と米を一から無農薬で作り、木の樽を使って、「山里ひっぽの元気な味噌」を造っていらっしゃる。
そんなつながりで、「わがやのお味噌はひっぽのお味噌!」と、私たちの結婚当初から決めていた。分厚いビニール袋に入った「元気な味噌」は、文字通り食べると元気になる。でーんと送られて来たのを見ただけでも、ほんまに元気になる。それくらいおいしい。そのうちに、どんなところでどんなふうに造っているのか、実際に見てみたいと思うようになった。
しょっちさんと私は、11も年齢が離れている。向こうは東京の人間、こっちは生まれも育ちも大阪人で、お互いすれ違うことも多い。しょっちさんのことを、もっとよく知りたいという気持ちもあった。彼が大学時代、どんなことをして、どんな人に会って、どんなふうに考えるようになったのか。Sさんに会えば、それが少しは分かるような気がした。
しょっちさんの強い勧めもあった。
「大学時代は、人生の窓が開いて、さらに窓が増える時だよ。そこから見える景色も人も。だから、できるだけいろんなとこに行って、いろんな人に会って、いろんな経験をした方がいいんだよ。」
しょっちさんは常々こう力説していた。特にひっぽ行きは強力に推していた。ただ、私の学校が忙しくて、思ってすぐには実現しなかった。結婚して一年経つ頃、やっと、夏休みを利用して行ける事になったのだった。
出発当日は、ぎりぎりまで学校の図書館で「算数科教育法」の課題をしていた。ふと顔を上げると、かなりやばい時間だった。スピードアップしてとにかく課題を終わらせ、レポート用紙を整えてホッチキスで止めた。そのままガバッと立ち上がると、図書館を飛び出し、ダッシュしてレポートボックスに課題を投げこんだ。A棟の横を駆け抜け、「エスカレーターを昇ったところ」までたどり着いた。
学生仲間の間では、いつもそうやって言われている場所だが、帰り道は足で階段を降りなければいけない。長い長い階段を下っていくと、最後には膝がカクンカクンするか、ガクガクして感覚がおかしくなる。
でも、下山する時の道や、山の上から見渡せる風景が、結構気に入っていた。春には、レンギョウやユキヤナギの、黄色や白色の花が階段の両脇を彩る。ソメイヨシノや里桜、枝垂れ桜、八重桜、山桜も順に咲く。夏には、ブッドレアの花を除き、山ツツジ、コデマリなどもみんな、田んぼで伸びかけの稲のような緑色だ。
向かいの山の斜面には、ぶどう畑が見える。K市やY市の町並みがぐるっと見えるし、天気の良い時には、もっとずっと先まで見通せる。「今からあそこに帰るんだな」と思う。山の上では私は学生だが、山を下るうちに、しょっちさんの妻としての顔や、アルバイト先での「先生」の顔になっていく気がする。
今日は、旅の者の顔だ。何百とある階段をあまり意識しないで、タタタタタと駆け下りた。そのまま校門を過ぎ、タラノキと桐の木を横目に見て駅へ向かった。朝、太陽の光を受け、葉っぱをキラキラ輝かしていた木たちが、だんだんその陰を濃くして立っていた。
家に帰り着いて、汗びっしょりの服を着替えた。準備していたカバンに忘れ物が無いか、さっと見た。それから、トルコの青いヒジャーブを手に取って、頭にふわりとのせた。色も薄さも夏にぴったりの、一番のお気に入りのヒジャーブだ。
両方のこめかみの少し上で、後ろから寄せてくる布の形を整える。そのまま手を喉元へすべらせ、きゅっと引いて安全ピンで留めた。しばらく鏡を眺め、ヒジャーブと自分の顔を吟味した。前にたらした布の片方を後ろへ翻し、肩に荷物をひっかついだ。部屋のものを全部なぎ倒しそうな勢いで、いざN駅へ出発した。
私は普段、大学やアルバイトに行く時などは、ヒジャーブをつけていなかった。本当は常につけておきたいが、仕方ないとあきらめていた。9月11日のテロ事件以降、案の定大学でもよくイスラム教の話題が出た。そんな中へヒジャーブ姿で行けば、質問攻めに遭いそうでイヤだった。アルバイトに関しても、ヒジャーブ着用は駄目だと採用を断られた話を、周りのムスリムからよく聞いた。認めてくれる職場が見つかるまで、何件もまわるなんてそんな、面倒で心が傷つきそうなことは御免だった。
家の前の通りにでると、行き交う人々の視線が、いつもよりゼロコンマ三秒くらい長く、こちらを投射するように思えた。電車に乗っても、何か見られている感じは消えなかったが、他のことを考えて気を紛らわせた。
私は旅行が大好きで、よく行くのだが、今回は、結婚後初めての一人旅だった。私一人だけで、仙台への夜行バスに乗る。車中泊を含めて三泊四日の予定だった。しょっちさんとそんなに長く離れるのも初めてだ。少し寂しく思った。
N駅でしょっちさんとおちあい、夕食にオムライスを食べることになった。
オムライスを注文したら、小さなスープがおまけでついてきた。明らかに、私たちには食べられないものだった。二人で顔を見合わせてためらった後、しょっちさんが、
「すいません、これ…これ、下げていただけますか?」
と言った。店員さんが、一瞬ものすごい表情をしたのが見えた。
私は、とても申し訳無い気持ちがした。あああ、先に聞けばよかった、と思った。「聞くは一時の恥、聞かぬはめっちゃ失礼」だ。せっかく持ってきてくれはったのに。またイスラームのイメージがわるなったらいややなあ、と思った。
埋め合わせに、オムライスを持って来てもらった時、思いっきり笑顔でお礼を言った。お勘定の時も、自己記録最大くらい、愛想良く振舞ったつもりだ。
仙台行きの夜行バスは、比較的出発時間が早い。すぐバスターミナルに行く時間が来た。バスターミナルに着くと、ロビーでベンチに腰掛けた。
電光表示板の行き先表示が、一つ一つ繰り上がって、仙台が近づいてきた。「はい。八番乗り場。七番乗り場。二十時三十二分発。仙台行きです。」
「よっしゃ行こ。」
立ちあがると、しょっちさんも荷物を持って続いてくれた。ロビーから外の道路に通じる扉が開くまで、チケットを用意して待った。ガシャーという、扉が開く音と共に、外の車の音がロビーに入ってきた。私がチケットの確認を受けている間、しょっちさんが荷物をバスの下部へ入れてくれた。
ムスリムの挨拶を交わして、バスに乗りこんだ。席に着いて前の方を見たら、しょっちさんが背筋を伸ばして、まだ立っていた。ふ、と笑ってもう一度手を振ったら、バスが動き出した。
柿色の街の光をくぐって、バスは茨城から名神高速に入った。やがて、運転手さんの車内説明があり、その後消灯になった。カーテンを閉め、顔の乾燥防止に、ヒジャーブを目深にかぶって、寝る態勢に入った。こういう時ヒジャーブは便利だ、寝顔も見られないから恥ずかしくないし、と思った。明日、どんな景色が見られるか楽しみだった。

*
ぼんやりと目が覚めた。バスはごうごうと走り続けている。まだ暗い。いま、何時だろう。眼鏡をつける前に時計を見ると、四時か五時の形だった。どこを走っているのかなと思った。カーテンを少し開け、すき間に頭をねじ込んだ。
(え、海?)
まさか海のはずはない。宮城へ行く途中で、海の中の道を通るなんて、聞いたこともない。眼鏡をつけ、無理やり目を全開にした。一面まっ平らな世界が、やがてはっきり見えてきた。
(田んぼかあ!)
小さい時から田んぼには見慣れてきたが、これほど広大で平らな田んぼは初めてみた。山の斜面を利用した、「棚ン田」と呼ばれる段々の田んぼがほとんどだったからだ。
(でっかあ…)本当に、右も、左も、地平線までもずっと田んぼだった。時折フラッシュで、家や木が見えては消えた。後はどこまでも田んぼだ。
青い看板で、「新潟」という字が見えた。(ああ、そうかあ。さすが新潟やなあ。)私はそれで納得し、すっかり感じ入った。そのまま一時間ほど飽かずに外を見ていた。
もう一度目が覚めると、他の乗客たちが降りる準備をしていた。仙台駅までもう少しというところだった。ヒジャーブの形を整え、降りる準備をした。大きなビルの中を進んで、駅から少し離れたところに、バスは止まった。荷物を受け取って、駅ビル目指して歩いた。
ビルに着くと、まずしょっちさんに連絡した。それから、Sさんのお宅に電話した。Sさんの妻さん、Mさんが出てくれた。「槻木」に着いたらまた電話するように、とのことだった。
槻木駅まではすぐだった。ぼうっとしているとすぐ着いた。また電話をして、今度は阿武隈急行に乗りこんだ。
阿武隈急行の電車は、しょっちさんと帰省する時、途中で乗る電車に似ていた。ワンマンカーで、降りるときは自分でボタンを押して扉を開けるのだ。しょっちさんは、「寒いところではこの方が効率がいいんだ」と言っていた。ちょっと懐かしい気分になった。
阿武急に乗っていておもしろいなあと思ったのは、途中の駅名全部に、「古墳と歴史ロマンのまち」というような枕詞がつけてあることだった。次は何だろうと興味がひきつけられた。そうこうしているうちに、丸森駅に到着した。
改札口を出たところで、Mさんが待って下さっていた。「どもー。」Mさんが言った。眼鏡の奥から目がバチッとしていて、ポニーテールに、エスニック調のワンピースを着て、とても活発そうな方だった。「おはようございます、どうもありがとうございます。」荷物を持ってMさんの後に続いた。そして、大きなワンボックスカーに乗せてもらった。
ひっぽに行く前に、Mさんのお買い物があった。スーパーの前で、作業をしていたお兄さんが、「こんちはー。」と声をかけてきた。「どもー。」Mさんが言った。「こんにちはー。」私も言った。「この人も、ひっぽに来るの?」お兄さんがきいた。「いやいや、それはまだ分かんないけど。」Mさんが言った。
ソーヤには、いろいろな人が見学に来るようだった。ソーヤにとって、そのことは一つには、環境について考える場を提供するという意味があるらしい。ソーヤ自体が、そういう目的もあって始められたからだ。もう一つには、実際にひっぽに住んで、共にソーヤの農作業や味噌の仕事をやっていく仲間探しのためのようだった。
買い物が終わり、再び車に乗りこんだ。朝のまち、といった風景が、だんだんと、くねくねの山道になっていった。
道の両側に木が並んでいて、トンネルのようになっているところがあった。きれいな黄緑色の光が差していた。「うわあ、めっちゃきれい!」と言った。Mさんが、「ここは、『緑のトンネル』って呼ばれてるの。でも無くしてしまえって言われてんの、邪魔だから、って。」「んー…」私は何とも言えなかった。それでも、繊細で水に透けるような黄緑の木もれ日は見事だった。
さらにくねくね行くと、道をおばあさんが歩いていた。「どもー。」とMさんが車を止めて、おばあさんに車に乗るよう勧めた。おばあさんは、にこにこしながらおじぎをして、車に乗った。おばあさんの家は、Mさんたちの家に行く道の途中にあった。車を降りると、おばあさんがまたおじぎをして、のんびりした感じで歩いて行った。
「Mさんは、どうしてひっぽに来られたんですか?」と私が聞いた。「田舎で鍼灸師やりたかったから。」Mさんが言った。Mさんは鍼灸師さんだった。ソーヤに電話すると、「こちら、ソーヤとM治療院」という留守番電話になる時がある。
話しているうちに車は進み、とうとう、Mさんたちのお家が見えてきた。田んぼや畑が周りにある坂を、登ったところにあって、さらに後ろには斜面が見えていた。昔、桑畑だったところを、一本一本引っこ抜いて、大豆を植えるようにしたらしかった。お蚕さんの作業場を味噌倉に、休憩のための場所を家に、再利用したらしい。そんなわけでお宅は、昔は一間しかなかったそうだが、現在はかなり建て増ししたということだった。見てみると、外見はすっかり、ふつうの家の大きさだった。家の周りには山が、もこもこと迫ってきていた。
軽トラックが置いてある横に、Mさんが車を停めた。車から降りた。「うわっ、すっずっしい!」と思わず言った。空気がめっちゃ涼しく、めっちゃ気持ちいいのだった。
それから、家の中に入らせてもらった。「前は、この部分しかなかったのよ。」とMさんが指した。現在は居間になって、台所に続いている部分だった。そこから、すてきな板張りの廊下があった。その向こうに部屋が続いていた。パソコンが置いてある部屋もあった。
小休憩が終わると、とりあえず、畑にいるSさんにご挨拶してこよう、ということになった。その前に、外に出たついでで味噌倉を見せてもらった。
戸を開けて入ったら、わあっとお味噌の香りがした。途端に、ものすごくでかい木の樽が、でーんでーんとたくさん居座っているのが見えた。それぞれ上の方と下の方、おなかに、はちまきを締めているみたいだ。全部に覆いが被せてあった。
「大きいですねえ。こんなんどうやって天地返しするんですか?」と聞くと、「そう、だから天地返しの時は、一寸法師みたいにたらいに入って、味噌の中に浮かんで、シャベルで樽から樽へ移しかえるの。そうじゃないとできないから。」と教えてもらった。
Mさんが、小さめの樽のふたを取って中を見せてくれた。「ここから袋に移し変えて発送するのよ。」
「ううわああ…」大迫力の眺めだった。お味噌が「味噌!味噌だ!」と主張していた。これほど大量のお味噌は見たこともなかったけれど、あいかわらずおいしそうだと思った。
味噌倉を出て、畑に向かった。「そこ、気をつけて。」と言われて見てみると、赤く細い線が張ってあった。「いのしし対策でね、触れるとピシッとするよ。」よく見ると、畑を囲んで、地上三十センチメートルぐらいの高さに、ずうっと張られていた。後から知ったが、それを「電牧柵」というそうだ。私は急にビクビクしだした。「まあ、縄飛びでぶたれたくらい『らしい』から。」とMさんがいった。
こわごわ線を越え、Sさんのいる斜面の方へ歩いていった。Sさんと、もう一人のお客さんは、大豆畑の草抜きをしていた。「こんにちは。」「ああ、着いたの。」Sさんは、おヒゲがかっこいい、優しそうな方だった。「もうすぐお昼だね。」そんな話をしながら、またSさんは草抜きをしつづけていた。「あ、大豆の花だ。」私は写真を撮った。それから、草抜きを始めた。すこし経って、Mさんがお昼ご飯を作るのを手伝いに行くことになった。
お昼の頃には、SさんとMさんの息子さんも保育園から戻って来ていた。
本番の畑仕事の前に、服を着替えた。Sさんが、「作業をするなら汚れてもいい服を持って来てね。」と教えてくれていたから、ヨレヨレのジーンズと、ユルユルの長袖シャツを持って来ていた。着替えて、ヒジャーブは作業用に海賊みたいに結んだ。靴を変え、軍手をはめた。
「ほら、あそこ見て。」畑に行く前に、Mさんが教えてくれた。「ピッピッて、ここから電気を流してるのよ。」見ると、家の外壁に取り付けてある、はと時計ぐらいの大きさの装置が、一定間隔で信号を発しているみたいだった。そろそろと線をまたいで、畑に向かった。
もうSさんは草抜きを再開していた。「今日中に、何とかここは、終わらせたくてね。」とSさんが言った。「この列は、私が抜きますね。」そう言って、作業に入った。畝は、斜面に縦に並んでいた。黙々と作業しながら、Sさんと私が近づき、横に並んで、また離れていった。近くて声が聞こえる時は、おしゃべりする時もあった。
「しょっちは元気?」「ええ、元気です。」「昨日夜に電話かけてきたよ。」「えっ、そうなんですか。」「そう、『ほっちをどうぞよろしく』なんて改まって。」そう言ってSさんは懐かしそうに笑った。
「大樽、最初にしょっちさんも運んだそうですね。」「そうそう、作業服がね、今でも残ってるよ、残しといてーなんて、しょっちがねえ。」そしてまたふふっと笑った。
「あの電線に、他の虫とかがピシッとなってしまうことは無いんですか?」と私が聞いた。「地面とアースしてないと、電流が流れないから、あ、ほら。」Sさんがそばの線を指差した。とんぼが止まっていた。「ほんまや。」私が言った。「地面に足をくっつけていないと、流れないんだよ。電気は電線から地面へ抜けるから。」「なるほど。」何か意味深長な感じがした。
出し抜けに始められる話は、いつも、最後の方は聞こえなくなり、フェイドアウトしていった。
雑草はものすごく元気だった。耳元でアブや蚊や、その他大勢がブンブン騒ぎまくっていた。斜面は日が照りつけ、汗がボトボト落ちた。大豆は、それでもがんばって生えていた。これが、来年には味噌になるんだと思うと、厳かな気分になった。
「終わったね。」日が暮れかかる頃、Sさんが言った。「もうそろそろ家に入らないと、ブヨがたくさん出てくる。」Sさんが言った。「もう刺されたよ。」「そうですか?」「えっいない?刺されてない?」Sさんがちょっと驚いて言った。
普段よく蚊に刺されるのだが、その時はまだ一匹にもやられていなかった。「いるよお、ほら、ここも。」ちょうど一匹のでかいブヨが、Sさんの腕を刺していた。「まだみたいです。」「ほんとう?いいなあ!ひょっとして、その格好のせいかな。スカーフは虫にも効くのかもね。」とSさんが言った。
夜になった。空気がまた格段と涼しくなった。夕ご飯をご馳走になった。「あ、家のは石鹸シャンプーだから。」Mさんが言った。「はあい。」そう言ってお風呂に入らせてもらった。
お湯をいただいて上がると、家族団らんの風景だった。お二人の息子さんは、ほとんどいつも機嫌がよく、ニコニコ笑っていてとてもかわいい赤ちゃんだった。MさんもSさんも、笑顔で楽しそうだった。私も幸せな気持ちになった。私の両親はけんかが多かったので、ああ、こういうご家族もあるのだなあと思うと、希望が持てるような気がするのだ。そして、しょっちさんのことを想った。
今回の旅は以前と違うな、と思った。以前の旅は、親のところから出発していた。今回は、しょっちさんと私の場所から出発した。以前は、自分の場所を探しに行く、フラフラした旅だった。今回は、自分の場所はもう決まっているから、それを確認している旅のようだと思った。
「こんなのが、イッピキいると、ほんと楽しいよね。」Mさんが息子さんを見ながら言った。「二人だけの時も、ひっぽの十年後はどうなるだろうなんて、考えたりしてたけど、こうして子どもがいると、具体的になるっていうか。この子が十歳の時はひっぽはどうなってるかな、とかね。」
「丸森からここへ来るあいだで、子ども見た?」Mさんは言っていた。「ううん…確かに…」私は自分で答えながら驚いていた。一人もいなかった。これからのひっぽは、どうなっていくのだろう、と思った。
寝る場所は、すてきな板張りの廊下にしてもらった。水に浮かんでいるみたいに、最高に気持ちが良い場所だった。布団に横になっていると、下には地面を感じ、上には星が出ているような感覚がした。
一日のことを思い返せば、つくづく、MさんとSさんはすごいなあ、と思った。とても素適な生き方をされていると思った。電牧柵には注意しなくてはいけないけれど、きちんと地に足をつけて、自分がやろうと思ったことに忠実に、毎日着実に歩いていく、そんな感じを受けた。

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